庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2015年3月

16.異常気象が変えた人類の歴史 田家康 日経プレミアシリーズ
 歴史的事件などのトピックと当時の気候変動を関係づけたエピソードを語る本。
 著者の専門からは外れるかも知れませんが、氷期・間氷期が繰り返される理由が陸地が北半球に偏っているために地球の公転や地軸の傾きの変化により北半球の日照量が減少して北半球の陸地の氷床(万年雪、氷河)が拡大する時期が氷期となる(南半球は海洋が多く海の水は塩分のために−1.5℃にならないと凍らないので影響は小さい)という説明(36〜37ページ、194〜196ページ)に、まずそうだったのかと驚きました。
 有史以降では気候変動の大きな要因は太陽活動と火山の大噴火で、8世紀から13世紀初めまでは温暖期、13世紀後半から相次ぐ火山の大噴火によって寒冷期が始まり、13世紀後半にはモンゴル帝国の軍事力が低下したり、16世紀の火山の連続的な大噴火による気温低下時には魔女裁判が増えたりしたことが論じられています(100〜104ページ、124〜128ページ)。他方で、太陽活動が最も低迷した17世紀後半のマウンダー極小期はこの寒冷期でも寒冷化の極にあたり、この時期に育ったトウヒは小穴がない堅い材質になり、それがストラディバリウスの音色を作っていると論じられています(135〜139ページ)。
 1970年代に、氷河期が来ると言われていた原因となる寒冷化傾向は、火山の噴火(インドネシア:アグン火山)、大気汚染(工場の煤煙、自動車排ガス)、大気圏核実験によるエアロゾルのせいだとされています(175〜179ページ)。
 いろいろと、そうだったのかと思うところがあり、でも本当かなぁと思うところもある好奇心を刺激される読み物ではあります。

15.傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった 小野美由紀 幻冬舎文庫
 教育ママの抑圧に反抗して自傷行為やタンポン売り、不登校を重ねつつ、しかし大学に入り留学・TOEIC950点等の金看板を手に就活をリードし第一志望企業の最終面接に臨むが、その門前でパニック障害を起こして就活を捨ててカミーノ・デ・サンティアゴの巡礼に旅立ち、帰国後紆余曲折を経てライターになるという、著者の経歴をなぞった自伝的小説ないしエッセイ。
 前半の3分の2は、カミーノ・デ・サンティアゴの巡礼の道行きに、過去のあれこれを織り込んで、小説ふうの体裁を取っています。しかし、巡礼が終わると、その後は、帰国後現在までの部分も、大学入学前の部分もごちゃ混ぜに、ばらけたエピソードが並び、著者自身がブログで紹介しているように「エッセイ集」の体裁になります。最初から読んでいくと、巡礼が終わったところで、調子が狂う印象を持ちます。そうであれば、最初から、エピソードを巡礼の流れの中に配するのではなく、ばらした形で置くか、最後まで巡礼の過程に挟み込むか、時系列的にそれが厳しければ、最近のエピソードの中では逆に巡礼の時の回想を入れるなどして、読み物のスタイルとしての一貫性を保って欲しかったと思います。
 母親に反抗して注射針で血抜きをしてその血や吐瀉物をバケツに入れて母親の机に置く娘、母親にそれを見せたくなくて母親が帰る前にそれを捨てる祖母(しかし娘には何も言わない)。東大の模試でB判定を受けた娘に対し「あんたに教育費いくらかかってると思うの」と詰る母親、その母親に対して泣きながら「小遣いもらうたんびにお母さんに怒られるのがいやで、タンポン売ってんだけど、知らないおっさんに。気づいてるよね?」という娘、それを聞くや向かい合っていたのを90度向きを変えて黙ってリモコンを付けてテレビを見始める母。「事実は小説よりも奇なり」でしょうか、凄まじい母娘関係と、強烈な母親への恨みが印象的です。
 そういった心の闇から、さまざまな試行錯誤を経て立ち直る過程については、何がよかったとか決め手になったという整理がされずに、どこか雑然と描写されています。人生はそういうものだよという気がしますし、その意味では、読み味は悪いけど、後半のエピソードのバラバラな配列は理にかなっているのかも。

14.ソクラテスの人事 NHK「ソクラテスの人事」制作班 祥伝社
 企業の採用試験で出された奇問を用いてタレントが回答し企業の現役採用担当者がそれを見て採用したい人材を決めるというNHKのバラエティ番組から36問を抜粋して出版した本。
 「正解」のない問題に対して回答を出す「地頭力」、柔らかな発想、顧客と企業・面接担当者といった他人に対する想像力・アピール力が試されるクイズで、そういう面から読むべきなのでしょうけれども、現実には就活本として学生たちに読まれるものとなります。私も、就活中の息子からリクエストされて、息子に渡す前に一読したという次第。
 就活本としては、問題そのものよりもそういった問題を通じて企業の人事担当者がどういう視点で回答者(学生)をチェックし評価しているかについて、学生側が気づき発想を拡げることに意味がある本だろうと思います。
 就活とは無縁の立場で読ませてもらうと、感じるのは、ふだんは「お客様」へのメッセージを発信している企業が、自分が選ぶ立場になった時に見せる「我が社」意識、自負の強さ、「我が社」にふさわしい人材を採用してやるという上から目線、人事担当者の驕りといったところ、ふだんの建前発言との落差です。業種と求められる人材の説明に徹している企業もありますが、こういう尊大な企業とはおつきあいしたくないなとか、人事担当者が学生に対する生殺与奪を握り舞い上がって勘違いしてるんじゃないかと感じるところも多々ありました。また、企業側におもねるテレビ局のバラエティ番組制作側の体質も見える感じがします。
 「新聞紙を50回折り曲げると、どれくらいの厚さになるでしょうか」という設問の出題企業の社長が「正解を期待しているわけではない」としつつ、「正解は0.1×0.1×0.1×……=0.150=およそ1億1200万km」「最も多い平凡な誤答が『0.1mm×50=5mm』という50乗ではなく50倍と計算したケース」(16ページ)としているのには唖然としました。新聞紙の厚さが0.1mmという前提です。正解を言うなら、まず「折り曲げる」が新聞紙全体を半分に折ってその後も全体を半分に折っていくという形なら50回折ることは不可能です。新聞紙サイズの紙なら、理論上、7回までしか折れません(※↓)。仮にそれができるという無理な(荒唐無稽な、非現実的な)前提に立った場合の理論上の正解は、当然のことですが、0.1×250です。重なる紙の枚数が250になりますから。この出題企業が言うような、厚さ0.1mmの紙を折ってその厚さと厚さの掛け算ってどこからも出てこない(ユニークな発想とは言えますが明確な誤り)。また0.1を掛けていったら値はどんどん小さくなり=1億1200万kmなんて大きな数字になるはずがない(最低でもそこで気付けよと思う)。次に現実に50回折るとしたら、端を細く折って巻くように順次1枚ずつ重ねるように折るか、アコーディオン状に折っていくことになり、どちらの場合も1回折る毎に1枚重なるので、厚さは0.1mmずつ増えていき、この会社が「誤答」という0.1mm×50倍の方が正解によほど近い(この場合の正解は、1回折った時点で2倍になるので、0.1mm×51=5.1mmになるはず)。こういう誤りを番組で平然という会社、それを訂正もしないで出版の際に選ぶテレビ局の制作班(気づかないのか?)の驕りこそ就活関係者の意識をよく表していると思います。帽子のネーミングで「日陰冷子さん」が模範解答だ(55〜58ページ)というセンスも、驚きです。

※新聞紙が7回しか折れない論証
 8回目を折るとした場合、その折り目は「コ」の字状の紙が128重に重なった状態になります。折り目の「コ」の字の縦棒部分(折り目の側面)にある紙の長さを考えると、新聞紙の厚さが0.1mmという前提では、一番外側では新聞紙をまったく隙間なく重ねられると仮定して新聞紙256枚(2の8乗)分の厚さ25.6mm、一番内側では新聞紙2枚分の厚さ0.2mmです。その間は0.2mm刻みの等差数列です。したがって、その合計は(0.2+25.6)÷2×128=1651.2mm。つまり8回目の折り目の側面にあるべき紙の長さだけで合計165.12cmに達します。「コ」の字の縦棒部分で見るのは折り目側面の最小値で、実際には丸くなりますからさらに長くなります。もし半円で近似したらその1.57(π/2)倍になります。新聞紙は見開きでA1サイズ(594mm×841mm)ですから、紙の最大長さは、斜めの最大寸法を採っても1m弱です。ですから、厚さ0.1mmの新聞紙サイズの紙では、半分折りを8回することは理論的にできません。

13.イスラーム法の「変容」 近代との邂逅 大河原知樹、堀井聡江 山川出版社
 イスラム諸国での近現代の立法とイスラム法の関係について説明した本。
 イスラム教の聖典クルアーンによれば神がムハンマドを始めとする多くの予言者を遣わしたのは啓示によって人々の紛争を裁断するためだとされるので神の啓示は法を内包していることになるが、クルアーンには婚姻・離婚・相続と刑罰に関する規定が見られるだけで、イスラム法(シャリーア)の大部分は知識人(ウラマー)が啓示を解釈する学的努力によって導き出されたものとされています(5〜8ページ)。その際、クルアーンに関連する規定がない時は、ムハンマドの言行(スンナ)に依拠しその伝承(ハディース)が法の解釈の根拠となり、クルアーンでもスンナでも解決できないことは合法的な推論に委ねられるが、ほとんどの場合ウラマーの学説は複数に分かれるそうです(9〜10ページ)。よくいわれる「ファトワー」はウラマーが信者からの法律相談に応じて発行する私的な法学意見なのだとか(18ページ)。
 そうすると、伝統的なイスラム法は、学説が法としての力を持ち、さまざまな知識人が考え出した意見が競いながら適用されていくということで、並立・対立する学説のどれが適用されることになるのか不安定さを孕みつつ、学者にとっては天国というかやりがいのある世界となりそうです。
 イスラム圏が拡大し、時が流れて、ムハンマドの生きた時代と気候・風土が異なる場面での適用のために、法典が整備されていく過程では、分かれていたさまざまな学説から立法者による「選択」が行われて行くことになります。ある種柔軟な法解釈を可能としてきたシャリーアの原則を崩し、他を排除して1つの解釈のみを是認することでシャリーアの硬直化に道を開いたとも評価されますが、同時に、「(あることの禁止によって生じる)困難は、(禁止の)緩和を導く」とか「損害は、除去される」、「慣習は、法的判断を導き出すものである」などの一般原則を定め妥当性が図られていきます(50〜52ページ)。紛争を解決するルールである以上、結局は、似たような性質を持ってくるのだなと思います。
 「非ムスリムの目にどれだけ『イスラーム的』に映ろうとも、現代における体制派イスラームは、『正しい』イスラームを代弁するものではなく、むしろ多くの場合は極めてマイナーで、根拠も乏しい一つのイスラーム解釈にすぎないことに注意せねばならない。例えば、イスラームでは女性の運転が禁じられるというサウジアラビアの説は、ワッハーブ派以外では支持されておらず、サウジアラビア国内においてすら、異議が唱えられている」(101〜102ページ)というあたりにも、注目しておきたいところです。

12.タックス・イーター 消えていく税金 志賀櫻 岩波新書
 日本の財政状況を危機に追い込んだ重要な要因として、特別会計予算を隠れ蓑にした役人の無駄な事業への莫大な資金投入とそれによる天下り先の創設、財界・業界からの族議員と組んだ不必要な公共事業や財政金融政策の要求(公共事業の受注や多額の補助金の受領)と自民党税調経由の租税特別措置(企業の税金の減免)により、本来入るべき税収の多くが入らずに歳入が減り、無駄な税金が使われて歳出が増加したことについて論じた本。
 変動相場制である以上、円高局面は周期的に訪れることになるが、日本の経済界・産業界には円高恐怖症が蔓延し、円高局面になると政府を突き上げて財政金融政策を発動させる。アベノミクスでも円安誘導が図られたが、輸出企業はすでに生産拠点を海外に移しており輸出増にはつながらなかった。本来は、円高によってビジネスが成り立たなくなった産業分野や個別企業は市場から退出させるのが合理的である。そうして解放されたヒトやカネなどの資源を別の有望分野に振り向けることによって新たな成長を促すことが期待できる。しかし、日本では、本来ならば市場から退出するべき産業や企業が政府の財政金融政策やその他の円高対策によって生きながらえてしまう(17〜24ページ)。円高は、むしろ輸入価格は安くなり、購買力も高くなるわけですから、一般人には歓迎すべき面の方が多いように思えます。それを輸出企業の利益だけを優先して円高が悪いことと決めつけて巨額の税金を投入して無駄な為替介入などの支出をすることには、以前から疑問というか不快感を持っていました。その点では共感を覚えます。
 この本では、しかし、税金の無駄遣い、利権に群がる連中について、その構造というか抽象的な説明に終始しており、具体的な事実の指摘に乏しいところがもやもやとした読後感を残します。後半で、多国籍企業がさまざまなタックス・ヘイブンを利用した複雑怪奇な手口により課税を逃れ「無国籍企業」となっていることが指摘され、そこではアップルがアイルランドに2つの企業を設けてその一方に知的財産権を譲渡しつつその会社の管理会社をバミューダに置くことでその会社の法人課税をゼロにして、その会社からオランダに置いた会社を経由してアイルランドに置いたもう一つの会社にライセンス供与し、世界各国での収益をそのアイルランドの会社へのライセンス料として集中し、そのライセンス料はオランダの会社経由でアイルランドのもう一つの法人課税がゼロの会社にトンネルさせるという手法を用いていることが紹介されています(141〜146ページ)。さすが立派な会社アップルはおりこうさんですね。このあたりがほぼ唯一具体的な企業名入りの記述ですが、これは著者の直接の知見ではなくアメリカの議会が明らかにしたこと。大蔵省・財務省を通じてさまざまな場に立ち会ってきたことを度々述べる著者の姿勢からすれば、当然に知っているはずの国内のもっと具体的な話が欲しかったなと思います。
 なお、アップルについての記述では、「こうした企業の節税ないし租税回避のスキームを考案するために、極めて優秀な頭脳を誇る弁護士や会計士ほかの専門家が驚くほどの多人数で従事している。会社の納税額を減らすということだけのため、多数の有能な頭脳が動員されているわけである」「とびきりの頭脳がこのような非生産的な活動に使われ、結果として、世の中はむしろ悪い方向に進んでいる。嘆かわしきことである。このような優秀な頭脳が立ち向かうべき問題は、世界にいくらでもあるはずである。なんという頭脳資源の無駄遣いであろうか。暗澹たる思いになる」(150〜151ページ)という指摘があります。私もまったく同感で、同業者として心しておきたい言葉だと思います。
 他方、著者が元大蔵・財務官僚であることから、この本の視点も財務省サイドの偏りを感じるところがあり、行政改革がすべて正しく、規制緩和がすべて正しいように読める書きぶりには疑問を持ちます。財界・大企業を守ってきた規制の緩和(これには財界が反対)と、近年の財界が主導して叫ぶ規制緩和(労働者保護の緩和・撤廃など)は、この本の趣旨からすれば峻別すべきだろうと思います(この本では、事項としては企業を守ってきた護送船団方式の規制の緩和についてだけ触れていますが、一般論として「規制に利益あり」などと繰り返す記述は規制緩和がすべて正しいかのように読めます)。

11.女の一生 伊藤比呂美 岩波新書
 女の生き様をテーマに、読者からの悩み相談の形式を取りつつ書き綴ったエッセイ。
 著者自身のさまざまな恋愛、母との対立・母への反抗、摂食障害や自傷行為の経験に基づき、「あたしはあたし」「あなたはあなた」の自己肯定、子どもに対する全肯定とともに育児(や介護)はがさつ・ぐうたら・ずぼらを基調とした回答が中心となっています。
 ダイエットをめぐって、「自分はなぜやせたいか」「やせたほうがきれいだから。やせたほうが服が似合うから。当然です。わたしだってそう思っています。でもその似合う服は、誰が考えた?世間が考えた。それが似合う女がかわいい、きれいだ、すてきだという考え方も、世間が作った。世間が作り上げた価値観にうまうまとのっかって、この自分を否定する。いいのか、自分?」(21ページ)という問いかけをし、大根足と言われて自分の脚と大根を比べて大根と同じ太さの脚ならそれは「細い脚」と呼ばれるべきだと認識し、「その後も『大根足』と言われるたびに、心の中で、『こいつら語彙が貧弱、あたしの脚は大根よりずっと太い』とせせら笑っておりました」(24ページ)と飄々と語り、しかしながら自分自身は摂食障害を経験し(50ページ〜)さらに「わたしは、摂食障害になったこと、苦しんだことは、後悔していません。食べ物のことを考えるしかなかったあの日々は充実してました。苦しかったけど、もしかしたら、楽しかったのかもしれません。」(53ページ)と語れるあたり、懐の深さが感じられます。
 「よくよく考えつめると、恋愛なんて、相手を思いのままに動かせるという自分の力を感じたいだけ。蹂躙したい、とまでは言いませんが、支配したい、にとても近い。どんな穏やかな恋人たちだって、しょせんは、あたしは強いから相手に力を及ぼしている、おれは強いから相手に力を及ぼしているという喜びが、『自分が好き』という感情のまわりをぐるぐるまわっているだけなんじゃないですか」(45ページ)という恋愛観。他のパートでも繰り返し語られていますので、確信を持っているのだと思いますが、そういうものでしょうか。著者自身、「性のこともからだのことも書いてきましたが、恋愛については五十近くなるまで書けなかったような気がします」というように、この項目を「つづく」で終わらせているように、簡単には悟れず総括できないのだろうと思います。

10.暴き屋 南英男 廣済堂文庫
 悪党の悪事を暴きその秘密をネタに強請る裏稼業で贅沢三昧し多数の愛人との爛れた性生活を送る35歳の男瀬名が、急成長したゲームソフト会社の社長とその妻が自宅風呂場で惨殺された事件の真相を追うバイオレンス・サスペンス小説。
 7人の若い愛人と週1の関係を続けるというおじさんの妄想満開の設定に、いかにも「謎の女峰不二子」ふうの依光真寿美が絡むというあたりが、中高年男性読者にはお得感があるかも知れません。事件の展開はかなり荒唐無稽な印象で、娯楽小説だからという割り切りで読むべきでしょう。
 1999年の作品を加筆して再出版したとのことですが、2013年に出版するなら、原発は停止中にした方がいいと思いますし、ましてや福島第一原発が健在というのはあまりに無神経というか何も考えてないのかと思います。
 瀬名が殺人容疑で緊急逮捕された翌朝の警察官との会話で、23日間拘束できると言われたのに対して「刑事訴訟法203条だったな、確か」「ただし、条件がついてたな。勾留請求してから、10日以内には起訴しなければならない。起訴に持ち込めない場合は、いったん被疑者を釈放することが義務づけられてるはずだ」(135〜136ページ)というのはいただけません。「23日間」の根拠を言うなら203条の48時間と205条の24時間、208条1項の10日間と208条2項の10日間を合わせて23日間になるわけで、203条だけなら48時間です。それに、208条1項は確かに「勾留の請求をした日から10日以内に公訴を提起しないときは、検察官は直ちに被疑者を釈放しなければならない」と定めていますが、そのすぐ後の208条2項に勾留延長の規定があって、10日以内に控訴提起できない時はふつう勾留延長請求します。そうでないと23日間にならないわけですから、ふつうそこで気がつくはずですが。こういう半可通の知識のひけらかしは、その場で警察官にやり込められて終わることになり、かえって挫折感が生じるというのがふつうの展開だろうと思います。刑事訴訟法の条文まで引用するなら、きちんと調べて書いて欲しいなと思います。

09.マンガでわかるゲームの理論 ポーポー・ポロダクション サイエンス・アイ新書
 経済学でよく用いられる「ゲームの理論」を、典型事例の「囚人のジレンマ」だけではなく、ダメな上司が働かない理由と対応策、近所トラブルが悪化するメカニズムとその対応策などの日常生活の場でのさまざまな問題に適用して親しみやすく説明する本。
 ゲームの理論に親しみを感じさせわかりやすく感じさせるという点では成功していると思います。
 しかし、例えば、「なぜ牛丼屋、弁当屋は値段を下げるのか?」と銘打って、A店が500円で販売している場合に競合するB店も500円で販売するとA店の利益が5万円、B店が450円に値下げするとA店の利益は2万円になり、A店が450円で販売する場合にB店が500円で販売するとA店の利益が6万4000円、B店が450円で販売するとA店の利益は4万円という説例で、A店はB店の販売戦略に関係なく450円で販売した(値下げする)方が得をする(B店が500円の場合、A店が500円で販売する時の利益5万円よりも450円で販売する時の利益6万4000円の方が大きく、B店が450円で販売する場合、A店が500円で販売する時の利益2万円よりも450円で販売する時の利益4万円の方が大きい)から、450円で売るがゲームの理論による正しい解である(46〜53ページ)というのは、競合店が価格競争に陥りやすいことの説明としてはやや違和感があります。値下げ前の双方500円の時には双方が5万円の利益があり、双方が450円に値下げすると双方の利益が4万円になるのに、その2者ではない比較だけを見て450円に値下げするのが合理的な対応と言われても納得できません。先に値下げをすれば一時的には利益が上がるとしてもそうなれば競合店も値下げするのがふつうでしょうから、値下げをした時に最もありそうな現実的な予想は「相手も値下げする」なわけで、そうすると利益は値下げ前より減るのが当然です。現実の世界ではゲームの理論の(この本での)説例のように競合店が追随値下げした時にシェアが元通りになるとは限らないのでそこに値下げのモチベーションが生じると思いますが、それはこの本でのゲームの理論の説明を超えた問題で、ゲームの理論では説明できていないものです。ゲームの理論で言えば、「値下げ競争」の原理を「同時手番ゲーム」1回の説例で当てはめようとしたのが間違いで、同時手番ゲームの繰り返しか、逐次手番ゲームで議論すべきことかもしれませんが。
 ゲームの理論で身近なさまざまな問題を説明する場面では、当事者の「利得」をすべて数値化して議論することになります。近所トラブルの説例では、お互いに親切にすると双方10の利得、一方が親切にして相手が意地悪をすると、親切をした方は気分が悪くて-5、意地悪をした方は気が晴れて5の利得、双方が意地悪をするとお互いに0としています(78〜79ページ)。しかし、ゲームの理論はその数値の比較ですから、数値が変わると結果も変わってしまいます。商売の利益なら数字が決まってくるでしょうけど、こういう問題は根拠のない数値を勝手に決めて説明されても、しっくりときません。説明したい結果になるような都合のいい数値を設定しているだけじゃないかとも思えます。
 そういう点で、身近な問題をゲームの理論で説明したり、ましてや「解決する」というつもりで読むと納得感がなくむしろしらじらしく思えますが、あくまでも教養としてゲームの理論を理解するというかゲームの理論に怖じ気づかずに親近感を覚えるということを目的として読むのには手ごろな本だろうと思いました。

08.エネルギーとはなにか ロジャー・G・ニュートン 講談社ブルーバックス
 エネルギーに関する科学の基礎を「熱による仕事と基本法則」「電気エネルギーと化学エネルギー」「核のエネルギー」「量子力学のエネルギー」「エネルギーの貯蔵と輸送」「宇宙のエネルギー」の各分野に分けて説明した本。
 エネルギーをテーマにしていますが、実質は物理、特に理論物理学全般の基礎を、基本的な法則の紹介とその発見の経緯と発見者をめぐるエピソードを中心に説明していて、印象としては物理の教科書または物理学史の入門書という感じです。
 物理学の基礎をおさらいするという目的には手頃ですが、それぞれの分野でもう少し踏み込みが欲しい思いが残ります。そういう学習意欲をそそるという点がいいのかも知れませんが。

07.私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ 遥洋子 筑摩書房
 タレントの著者が、「ファン」や援助者を自認するストーカーに追い回された経験をベースに、ストーカーに殺されないための心構えを説く本。
 著者自身の経験と、桶川・逗子・三鷹のストーカー殺人事件のルポ、心理学者らの分析本を組み合わせた叙述ですが、当然、著者自身の経験部分が読みどころです。家族、警察、弁護士、周囲の男たちが真剣に受け取らずストーカー男を赦し放してしまう、助けてくれないということへの恨みが声高に語られ、警察が何と言おうが殺されないためには一般的な「ルール」など無視して大声で悲鳴を上げ続けてようやくストーカー男にドスをきかせてすごんでくれる警察官にたどり着いて助かったとか、カーチェイスになり追い越して反転逆走してストーカー男の車に正面からぶつけたなどの自己の成功経験についての強烈な自負心が、読んでいて鼻につきますが、それがこの本の売りとなっています。
 殺されないということ、その一点に究極の価値を見いだせば、殺人を完全に防止すること、防止できる社会などあり得ませんから、制度や社会に頼らず、本人が危険と感じれば、がむしゃらに逃げるか死ぬ気で戦えという方針にならざるを得ないでしょう。その限度で、強い危険を感じ守られていないと感じる人には共感度の高い本だと言えるでしょう。
 しかし、この本で書かれている著者の対応が、その対応ゆえに「殺されなかった」のか、対応しなくても殺されなかったのか、またたまたまそういう結果となったのかは、部外者には判断しかねますし、著者の対応がうまく行ったのは著者が著名タレントだからではないのか、一般人が同じことをやった場合に警察が対応してくれるのか、逆に許されるのかは、わかりません。
 72ページで、「被害届→告訴→起訴→逮捕状→逮捕、という流れだ」と書かれていますが、こういうことはまずありえません。被害届は被害の事実を申告するもの、告訴は被害の事実を申告して犯人の処罰を求めるものですが、いわゆる親告罪を除いて、告訴が必須というわけではありません。被害届や告訴状を出さないと警察が動いてくれないという場合でも、被害届と告訴状を両方出す必要もないですし、ふつうはどちらかでしょう。そして、起訴した後に逮捕状が出て逮捕などということはまずないです。逮捕するなら先に逮捕してその後に起訴です。在宅で起訴する(逮捕せずに起訴する)事件なら身柄確保の必要性がないと判断したからそうするわけで、起訴後に逮捕するなどということはふつうありません。

06.追及! ブラック企業 しんぶん赤旗日曜版編集部 新日本出版社
 ワタミ、ユニクロを中心に、過酷な長時間労働などで若者を使い潰すブラック企業の実情を報じた本。
 「365日24時間死ぬまで働け」で知られる渡邉美樹氏の創業したワタミの長時間労働は広く知られていますが、介護事業「ワタミの介護」での死亡事故を含む入所者の負傷事故の事故隠しと事故多発につながる職員が睡眠時間を削らざるを得ない長時間労働、業務委託の形式を取ることにより最低賃金以下で労働させる弁当宅配事業「ワタミの宅食」のマニュアルや研修での徹底や告知さえせずに広告では大きく謳う「安否確認サービス」の実情は、私も知りませんでした。ワタミには労働組合がないことについて、渡邉美樹氏は「今の段階として作らなければならないとも思わないし、作ろうとも思わない。」「今のワタミにとって必要かというと、必要ではない。」と言い放ったそうです。労働組合は労働者が作るもので、経営者が作ったり、経営者のためにあるものではありません。「組合は必要ない」と公言すること自体不当労働行為です。今どきこのような原始的で法的素養や常識に欠ける人物が、労働関係の法律を始めとする法律を作る国会議員になっていることは、真に嘆かわしいし、戦慄を覚えます。規制緩和と称して労働者の権利を奪う法の改悪を企み続ける安倍政権の下ではふさわしい人物なのでしょうけれど。
 入社して半年とか1年の労働者を「店長」にして「管理監督者」だからと言ってどれだけ残業しても残業代を支払わない(労働者側の弁護士として指摘しておけば、裁判になれば、それで管理監督者と認められることはほとんどありませんが)という手口は、ワタミ、ユニクロに限らず広範に行われています。昨年(2014年)秋以降、第二東京弁護士会労働問題検討委員会編の「労働事件ハンドブック」の執筆・編集で過労死・過労自殺の判決を読み込みましたが、経験も不十分な若い労働者が「店長」などにされて、残業代の未払だけではなく、責任感から過労とさまざまな重圧を背負い込んで過労うつ・過労自殺に追い込まれていく姿を見て涙しました。
 労働者が過酷な労働を強いられブラック企業が生き延びられる背景には、非正規労働者が労働者の4割をも占めるようにした政策があり、それが現在の政権でさらに助長されようとしているという日本共産党の指摘は、労働者側の弁護士としてはまさにその通りだと思います。
 もっとも、ワタミの追及が長時間労働ではなく企業ぐるみ選挙から始まるところは党利の方が重視されている印象を持ちますし、ワタミとユニクロについてはある程度まとまって書かれていますが、他の企業については断片的で迫力に欠ける感じで、そのあたりはちょっと残念です。

05.グローバル経済史入門 杉山伸也 岩波新書
 国境を越えた経済の歴史を16世紀以降というスパンで解説した本。
 「グローバル経済」というと、最近のいわゆる「グローバリズム」「グローバリゼーション」の枠組の中で捉えがちですが、この本では、それを16世紀から叙述し、18世紀までのアジアは自立した経済圏を持ちヨーロッパとの交易を必要としないアジア優位の時代であった(13ページ等)と描くことで、19世紀の西欧優位の世界をそのまま過去に投影して歴史を再構成させた西欧中心的な歴史観(4ページ)から脱却する試みを提起しています。そういった視点は有用だと思いますし、ルネサンス以前のイスラム社会の文化的優位の確認とともに私が学生の頃もすでに鄭和の遠征がヨーロッパの「大航海時代」より遥かに早く行われていたことが強調されるなど、アジアの復権・優位が語られていたことも思い出しますが、同時にそれが民族主義的な過剰なプライドと偏狭さにつながらないよう自戒しておく必要もありそうです。
 16世紀からというスパンで見ると、日本は世界有数の銀産出国であった(54ページ)が、銀が次第に払底して1660年代に銀輸出が禁止され(59ページ)、18世紀半ば以降日本は市場としての国際的魅力を失った(60ページ)、しかし19世紀後半においても「鉱物資源にめぐまれていた日本」からは石炭がアジア市場に、銅が欧米市場に輸出された(147ページ)など、「資源小国」という近年の日本の自己規定とは違った姿も見えてきます。
 現代に近づくにつれ、雑多な情報が未整理のままに書き連ねられ分析の視点がぼやけるきらいがありますが、過去の国際関係を捉え直すことで、歴史についての見方の幅を拡げる契機を与えてくれる読み物かなと思いました。

04.出訴期限 スコット・トゥロー 文藝春秋
 スコット・トゥローのリーガルサスペンスで、日本では2013年7月30日発行で、最新作(原書では2006年で、2012年9月30日発行の「無罪」より4年前)。
 出訴期限(日本の公訴時効のようなもの)が3年の州法の下で3年を過ぎて起訴された準強姦(昏睡強姦)事件について、上訴を担当したメイソン裁判官の悩みと、メイソン裁判官がかつて学生時代に犯した類似の過ち、メイソン裁判官への脅迫事件を絡め、裁判における法解釈とはどうあるべきなのか、裁判官とはどうあるべきか、裁判官は過去の経験に束縛されずに判断ができるかなどをテーマとしています。
 はっきり言って、ミステリーとしての部分は、私には凡庸というか、ふつうレベルの読み物に思えますが、裁判における法解釈のあり方とそれを巡る裁判官の悩みについては、貴重な題材・素材を提供してくれています。それで、つい、スコット・トゥローのリーガルサスペンス「出訴期限」を題材に法解釈を考える記事も書いてしまいました(法解釈を考える)。そういう方面に興味がないリーガル・サスペンスファンは、こちらは飛ばして、「推定無罪」→「無罪」にアタックされることをお薦めします。

03.ウォール街の狼が明かすヤバすぎる成功法則 ジョーダン・ベルフォート フォレスト出版
 映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」のモデルとなったジョーダン・ベルフォートが、自ら「ストレートライン・システム」と名付けたセールスの手法について語った本。
 金持ち相手に電話セールスでジャンク債等を売りつけてのし上がった人物のセールス本ですから、詐欺まがいの手法が書かれているかと思いましたが、電話を掛ける相手は最も裕福な人々「貧しい人に電話する時代は終わった」(82ページ)、「ノー」と言われたらさっさとあきらめて次に行く(123ページ)など、見込みのある客にだけ力を注ぐむしろ効率重視の手法に思えます。
 面談の場合は「4分の1秒」、電話では「4秒」で、@頭が切れる奴だと思わせる、Aどうしようもないほど熱心だと思わせる、Bエキスパート、専門家であると感じさせることが重要だ(82〜84ページ)、そのためには、自信を漂わせ、それらしく振る舞うこと、トナリティ(声の調子)とボディ・ランゲージで相手のことを気に掛けていること、相手と共通点があることを示せ、迷いを示さず、感情に訴えろというようなことがポイントになっています。まぁ、セールス全般の極意とはいえますが、理性的な納得よりも心理的に追い込んで買わせるという手法で、やっぱり詐欺商法の方に馴染みそうな感じもします。
 映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、マシュー・マコノヒー扮するハンスが、株が上がるか下がるかは誰にも、もちろんブローカーにも、わからない。大事なことは2つ、リラックスすること、数字ばかり扱っていると頭がちかちかする、1日2回以上マスをかけ、やりたくなくてもするんだ、それからドラッグだというようなことを教えるシーンがあり、驚きましたが、ジョーダンがこの本でも自分のメンター(師)はマーク・ハンナだとして、入社初日に「客から金を引き出すことだけを考えろ。そのために株を売りつける2つのポイントがある。1つ目はマスをかくこと。2つ目はコカイン。これさえやれば頭のキレが良くなる」と語りかけられたことを紹介しています(39ページ)。あのシーン、受け狙いの創作じゃなかったんだ。
 ところでこの本、原書の表示がどこにもありませんが、アメリカで出版されていないのでしょうか。

02.「歩きスマホ」を英語で言うと? 時事語・新語で読み解く日米の現在 石山宏一 小学館新書
 日本と英米の新語について、日本の新語は英語で表すと、英語の新語は日本語ではというような面からのコラム集。
 タイトルからすれば、日本の新語をメインとしているように思えますが、英米の新語の紹介も多く、私にはむしろ、英米の新語の方が面白く感じました。
 日本語→英語では、テンパる→become flustered(48ページ)、ブラック企業→a sweatshop company(61ページ)くらいかなぁ。ブラック企業は直訳で a black company としても間違いではない(61ページ)って書いてますが、アメリカでそう言ったら物議をかもすんじゃないかなぁ。
 英語→日本語では、中国の大気汚染の現状を airpocalypse : air + apocalypse (黙示録)→大気汚染地獄(151ページ)というのが、すごい。
 1987年以降に生まれた若者が digital natives で、インターネットなしで育ち成人となったが後に学んだ世代はデジタル移民(digital immigrants)なんだそうな(157ページ)。デジタル難民と呼ばれないよう気をつけよう…

01.堕落のグルメ ヨイショする客、舞い上がるシェフ 友里征耶 角川SSC新書
 副業として自腹で食べて辛口の料理評論をする著者が、飲食店業界の裏側について論じるとともに、飲食店をダメにしている要因としては客側の問題もあると指摘する本。
 批判されたレストラン側からの脅迫や出入り禁止を紹介する第1章は、そういうものかなとは思いますが、私怨感情が強く見え、延々と読まされるとちょっと辟易します。
 偽装問題をめぐる第2章は、食べログでのセミプロさくらライターを多数抱える会社の飲食店への営業の会話が、やはりそういうことはあるだろうなとは思いながらも、ショッキングです。後半の、産地偽装は一般人に見破れるはずがないのだから全ての店に偽装はあるものとしてつきあえというのは、処世術としてはそうでしょうし、味がわかりもしないで産地等の詳しい情報ばかり求めてありがたがる客のせいで飲食店が産地偽装をすることになるという指摘には一理あるとも思いますが、それでも表示する以上は嘘を言ってはいけないと、私は素朴に思います。
 第3章では、「日本広しといえど訴訟問題を語れるグルメライターは友里ただ一人」(36ページ)という著者が、飲食店側のわがままな対応を法的に論じています。しかし、予約拒否や店独自のルールについて憲法第14条(法の下の平等)違反の可能性を指摘する(79ページ、91ページ)のは、国が経営しているレストランであれば別論となるかも知れませんが、憲法第14条の私人間での直接適用を否定している最高裁判例(最高裁1973年12月12日大法廷判決:三菱樹脂事件)の下では無理があると思いますし、レストラン側が予約を拒否したり出入り禁止にするのに「合理的な理由」を求める(79ページ、85ページ)ことも私企業が誰と契約するのかは原則として自由(電気、ガス、水道等の公共企業の場合は別)である以上、法律論としては無理があると思います。もちろん、予約ができているのに当日追い返すことは債務不履行ですから、この場合店側の追い返しは違法ということになりますが。
 客側の問題点については、指摘されるような客の主張があるのならなるほどと思いますし、一見客や下戸が平等取扱いを求めるのは無理があるという指摘はもっともだと思いますが、それを言うなら第3章で憲法第14条など持ち出すなよと思いますし、関西人批判は出身地差別じゃないかとも思ってしまいます。私も大阪生まれですが、大阪生まれだから関西人批判をしてよい(誰よりも説得力がある:154ページ)という考え方には疑問を持ちます。言われている内容は関西人に共通してみられる文化だとも思えませんし、そういう行動が関西特有とも思えませんし。
 第2章、第4章、第5章と第1章の一部で構成すれば、もっと読み味のいい本になったのにと、思いました。

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