私の読書日記 2015年7月
05.沈黙の書 乾石智子 東京創元社
「夜の写本師」「魔道師の月」等の作品群で独特の存在感を示す作者が、「コンスル帝国」建国前の戦乱の時代を生きた青年「風の息子」ヴェリルが殺人を嫌いながらさまざまな場面で敵兵と戦い、付きまとう「長い影の男」と問答・心理戦を繰り返し、生まれ故郷風森村の仲間たちを思いながら、戦乱の世で平和と希望を目指す姿を描いたファンタジー。
「魔道師の月」で、純粋な悪意としての「暗樹」を登場させ、敵対者として描いていたのに対し、この作品で主人公ヴェリルに付きまとう「長い影の男」は悪意そのものではなく自身も悩みを持つ一歩引いた誘惑者と位置づけられます。あわせて「黒い獣」「黒い靄」「黒い風」「赤黒の雲」などが邪悪さを象徴していますが、統一した敵対者ではありません。現実にヴェリルを縛り突き動かす者も、どこか場当たり的に変わっていく印象です。この作品では、強力な敵との戦いというよりは、仲間たちを平和に暮らしたいと考えるヴェリルが持って生まれた魔法の力ゆえに「運命」に翻弄され、本意に反して敵兵を殺戮せざるを得ない状況に追い込まれ、自己嫌悪に陥り悩み葛藤する姿をテーマとしています。
ただ、あれこれ悩んだ末の結末/ヴェリルなりの(あるいは作者なりの)解決策が、言葉を持たぬ「蛮族」の侵略に結束して戦うことで文明人間では同盟的な平和が訪れるということ、要するに外敵を設定してその外敵を「鬼畜」と評価することで達成されるというのでは、現実世界にも多い排外主義政治家の言説レベルで、がっかりします。これだけむごたらしく殺戮を描き、ヴェリルを悩ませるのであれば、もっとすっきりした平和か、より高度な思慮の結果が欲しいと思いました。
「夜の写本師」は2014年8月分09.、「魔道師の月」は2014年9月分08.で紹介しています。
04.「とらわれ」をなくすと、悩みが消える 小林隆彰 PHP研究所
天台宗大僧正による困難に遭ったときの心のあり方などを説く人生論の本。
一番最初のテーマが「顔は自分のためにあるのでは、ありません」。「顔は、人のためにあるのです。恐ろしい顔、難しい顔をしていたら、見る人の心を不安にしてしまいます。そうではなく、優しい顔をして安心してもらいましょう。」(16ページ)というのです。ちょっと、ハッとするうまいつかみだと思います。それと同時に、ここで利他の心というこの本の大きなテーマを説明し、加えて「心と肉体は分かち難くむすびついていますから、まず肉体を笑顔にすることで心も笑顔にすることができるのです」(17~18ページ)という修行に通じる話もしています。
何事が起こっても、否定せず、まず受け入れてみるということが、繰り返し語られています。これについては、生き方として望ましい面と、疑問に思う面があります。他人の行為や降りかかったできごと・事件、置かれた状況に、不満を述べるよりも、事実として受け止め、それに対する対処を考えることが大事ということはそうだと思います。ただ、権力者の理不尽な行為に対し、まず受け入れるでは、いけないという場面もあるだろうと思います。
著者は、天台宗の僧侶でありながら、織田信長恩人論(当時の比叡山は武装して戒律を守らず略奪を繰り返す僧兵が支配し、まじめな修行者は谷底で修行していた。信長が焼き討ちをしたおかげで比叡山が再生できた)を主張した一風変わった人のようです。そういう立場から固定観念を捨てよといわれることが、少し沁みました。
03.カレイドスコープの箱庭 海堂尊 宝島社
海堂尊ワールドの東城大現在、田口・白鳥シリーズ第7弾!
え~っと、確か「ケルベロスの肖像」の発売時、宝島社は田口・白鳥シリーズ第6弾にして最終巻と紹介していたはずじゃないか…なんてことを言わない海堂ファン向けの作品です。
話の流れは、シリーズ第4弾「イノセント・ゲリラの祝祭」以降の、Ai(死亡時画像診断)の普及に執念を燃やす著者の主張を繰り返しながら、病院での術後死亡をめぐるミステリーを展開するものになっています。しかし、この作品では、謎の解明にはAiは利用されず、ただ術後死亡時でも病院側の説明と誠意があったとして遺族の納得を得られるというプラス面を紹介するにとどまっています。さすがにAiで事件を解決するというネタはもう尽きたかなという印象です。
ミステリーの点では、よくも悪しくも、著者らしいパターンで、海堂尊ファンにはおそらくほどほどの読み物だろうと思います。
それにしても著者の弁護士への恨みは相当なもののようで、医療過誤を扱う弁護士はもう詐欺師や強請屋扱いです。さて、日本でも本格的に弁護士が嫌われる時代が来ているのでしょうか。
02.マスコミが伝えない裁判員制度の真相 猪野亨、立松彰、新穂正俊 花伝社
裁判員制度の廃止を求める立場の弁護士が、裁判員制度実施6年間に報道された事実を元に、裁判員制度の弊害を解説した本。
裁判員の「出頭率」(法律上、裁判官と書記官は「列席」、検察官は「出席」、裁判員、弁護人、被告人は「出頭」です。法律を作っている人たち=国会議員・官僚の意識/認識はそういうことです)として裁判所が発表しマスコミが無批判に報じている8割という数字は、選定された裁判員候補者中の呼出に応じた者の割合ではなく、出頭したくないという回答をして裁判所から辞退を認められた人を除いた中で呼出に応じた人の割合なのだそうです(42~44ページ)。本来の意味での出頭率は3割台や3割を切るという状態だとか(44ページ)。辞退が幅広く認められると、裁判員は、裁判員をやってみたいと思う人が中心となり、国民から無作為抽出するという本来の制度と異なるかなりバイアスのかかった制度になってしまいます。
私自身、裁判員制度実施前の段階で、裁判官によって「選任」された(裁判官が解任もできる)裁判員が、公判前整理手続で裁判員が見ることができない多数の証拠も見ている裁判官と事実認定(有罪・無罪の判断)で対等に議論することができるのか、結局は、事実認定は裁判官の言いなりで有罪率は下がらず、量刑を重くする方向でだけ裁判員の意見が「国民の意見」として重んじられて、ただ量刑が重くなるだけではないかという疑問を呈していました(裁判員制度はうまくいくか)。この本では、それらの懸念が現実化していることに加えて、裁判員がお客様扱いされマスコミからも批判されず絶賛されることで増長する様子や裁判員のために公判審理が儀式化して無内容化していることが語られています。
刑事弁護をする立場からは(私も何年か前までは相当程度刑事弁護をしていましたから)、著者の意見はよくわかるのですが、他方で、国家権力と対峙して一民間人の弁護人が被告人の権利を守るということの大変さ、立場の弱さを意識し強調するあまりに、刑事弁護至上主義とも言うべき感覚で、被害者参加制度も裁判員ももちろんマスコミも邪魔者だという論調で論じることには、一般読者は、特に後半になるほど違和感を持つのではないかと思います。
「マスコミが伝えない裁判員制度の真相」というタイトルについても、この本自体が基本的にすべてマスコミ報道された事実を前提に論じているのですから、マスコミが事実を伝えていないのではなく、批判しない点を問題にしているわけで、やや違和感を持ちました。
01.訴訟の心得 円滑な進行のために 中村直人 中央経済社
企業法務を中心とする弁護士が企業の代理人として活動する場合を想定して、訴訟前の段階での見立て(見込み・方針)、訴訟の中で行う主張立証の実務について解説した本。
互いに証拠を十分に持ち、基本的に経済合理性に基づいて行動し、世間の評判に背を向けられない(大)企業同士の訴訟を想定していることから、事実関係の争いはあまりなく、法律解釈に関して学者の意見書を出し合うなど、私のような庶民の個人を依頼者とする弁護士が担当する訴訟とは、様相を異にする点が多々ありますが、活動する場面・分野は違っても、同じく30年間弁護士をやってきた(司法研修所の同期生ということですが…)著者とは、訴訟やその準備、訴訟活動についての実務的な感覚というか実践部分では共通するところが多くありました。実務的な手法やセンスについては、私のサイトで書いていることと通じる部分がずいぶんとあるように思えます。私には、やっている仕事というか活動分野はまったく違っても、きちんと訴訟実務に向き合っていれば、弁護士の考えというのは共通するものだなということを再認識できた点に、読んだ価値があったかなと思います。
この本では、「当方側に不利な事実があったとして、だからといって嘘をつくという方針はあり得ない。何十年も前には、そういうこともあったやに古老から聞くこともあるが、現在ではあり得ない。今の時代、コンプライアンスは非常に重視されており、嘘の主張をしようなどと画策すれば、あっという間にインターネットに暴露されたり、内部通報されたりするであろう。会社も弁護士も命を終えることになる。担当者に偽証をさせることもあり得ないのだ」とされています(42ページ)。理論的にはそうだと思いますし、そうあって欲しいと思います。また著者のようなまっとうな弁護士ならそうだろうと思います。しかし、私が一市民の側で企業を相手に訴訟をしてきた経験では、そういうリスクも無視して平然と嘘をつく企業と弁護士が少なからずいます。一市民相手ならだませる、押しつぶせると高をくくっているのでしょう。
準備書面の書き方で、長い準備書面はダメ(46~47ページ)というのはまったくその通りだと思います。しかし、企業側からは、本当に些末なことを並べ上げたただ長いだけの書面が出てくることが少なくありません。私のような庶民の弁護士とは違い、大企業から桁の違う報酬をタイムチャージ(かけた時間1時間あたりいくら)でもらっている弁護士がだらだらと長い書面を自分はたくさん仕事をしたぞと誇示する(そしてたくさん報酬をもらう)ために出しているのではないかと思うことが多くあります。こういう長くて内容のない書面に対しては、即座に短い反論をするのが有効(61ページ)というのもその通りです。私も、特に法律論だけの議論なら、そうすることが多いです。ただ、事実関係があれこれ出てくると、やはり依頼者に事実を確認したり、手元にこういう書類が埋もれてないかとか探してもらうことが必要になりがちです。準備書面は期日直後に書く方が裁判官の要求にフィットする書面が書けるし記録も頭に残っているから効率的という(62ページ)のは、理論的にはその通りですがなかなか実践できないという面と、本当にそれがいいのかなと思う面と半々に思えます。事実関係で依頼者の確認や証拠探しを待たなければならない場合はそもそもすぐには書けませんし、アイディアというのは、熟成させるというか、あれこれ考えているうちにというか、その後で不意に浮かんだりするものです。私は、期日直後から頭に置きながら、時々考え、浮かんできたアイディアを合わせて一本筋が通ったところで書きたいという感覚です。
証人尋問の準備については、考え方は似ているけど、リハーサル部分(109ページ~)は、たくさんの弁護士を使いタイムチャージでやれる弁護士は違うよねぇと、思ってしまいました。
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