私の読書日記  2010年12月

16.感染宣告 エイズなんだから、抱かれたい 石井光太 講談社
 HIV感染者の性生活と結婚、出産をめぐるノンフィクション。エイズの感染力は弱く異性間の性行為による1回あたりの感染率はコンドームを使用しない場合でさえ女性から男性が0.05%、男性から女性が0.1%と、この本で繰り返し説明されていますし、抗HIV薬を服用し続ければ(そのためには障害者手帳を得る必要がありカミングアウトすることになるし、長期的な副作用はまだわからないが)死亡することはほとんどなくなっているそうです。そのあたり認識していませんでしたが、HIV感染を性生活上のパートナーに知らせているのは半分程度(104〜105ページ)というのは寒々とした数字かなと思います。エイズ患者であれ、生きている以上性生活はあるものと思いますが、第1章で紹介されている3人のケースは、感染後に限っても、多くの人にとっては普通以上に奔放なあるいは多彩な性生活と感じられるのではないでしょうか。特に顔が醜いことで劣等感を持って性欲を満たすためだけに男色に走り乱交を繰り返してHIV感染し、それをすべて醜く産んだ親のせいだと恨み続けて父親を殴り倒し、HIV感染を知りながらも交際を続け心配して乱交をやめさせようとする同性愛者を振り切って乱交を続ける「拓郎」のケースは、HIV感染で人生が狂ったということを差し引いても、どうにも共感する材料もありません。また、薬害エイズ患者で、それと知って近づいてくる運動関係の女性と次々と関係を持つ「慎一郎」なんて慎みのないタカ派週刊誌が喜んで食いつきそうなネタだし、やっぱりその心根は醜いと思います。著者は、感染者とその家族だけで100人以上から話を聞いたと述べています(12ページ)が、具体的な事例紹介として挙げられたこの3人はどういう基準で選ばれたのでしょうか。妊娠出産を取り扱った第5章で、エイス治療・研究開発センターの専門家に「あなたのような人は、本を書くためにおもしろい事例を見つけたがるでしょうけど、そうじゃない人の方が圧倒的に多い。無事に産んで、日常を楽しく暮らしている人の方が大多数なの。そのことは忘れないで欲しい」と言わせている(236ページ)ことで帳尻を合わせたつもりでしょうか。HIV感染者の性生活をめぐっての問題提起とはなるでしょうけれども、どちらかというとHIV感染者の性生活をめぐっての嫌悪感や反感を強めそうな感じがします。

14.15.ノルウェイの森(上下) 村上春樹 講談社文庫
 1968年から69年の東京で私立大学の学生だったワタナベが、死んだ親友キズキの恋人直子と関係を持ち、心を病んで京都の療養所で過ごす直子に思いを寄せつつ、気まぐれで開放的なミドリにも心を引かれる恋愛小説。読書好きでこだわりを持ち、キズキが自殺した後基本的には孤高を保ち友人を作らないが、傲慢なエリートの永沢とつるんでガールハントに明け暮れる際や直子・ミドリ・レイコら女性の間では成り行き任せでなし崩し的に流されるワタナベの性格というか生き様というかが、情けなくもあり懐かしくもあり、という感じがします。そういう主人公の性格設定に加えて、姉の自殺でトラウマを持つ直子がさらに恋人の自殺でうちひしがれたところにワタナベとの関係が契機となって心を病んでしまい、主人公が自責の念と直子へのこだわりを強め、他方においてぶっ飛んだキャラの魅力的なミドリとの板挟みで悩むというシチュエーションに、さらに主人公がHシーンに恵まれるという余録も付いて、若い男性読者に強い支持を受けたのかなと思います。そういう意味で娯楽読み物として商業的戦略として成功している作品です。しかし、1968年から69年の大学(二流の私立大学と書かれています(上巻117ページ)が、位置関係とかから見て早稲田大学が舞台と判断できます)を舞台に学園闘争を登場させながら、ストを指導した学生たちに対する揶揄的な表現(「ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった」(上巻101ページ)等)以外はアルバイトと女性関係に終始しているこの小説があえてこの舞台設定を選んでいるのは、全共闘運動に対する一種の否定的総括と見えます。それをするなら正面から否定すればいいだろうし、69年に書けばいいのに、全共闘運動が忘れ去られようという1987年になってこういう書きぶりをすることには、全共闘世代というくくりを抹殺すべく「団塊の世代」という言葉を編み出した官僚にも似て、私は違和感を持ちます。登場する男女関係も、均等法後の1987年の作品としては、いかにも古風な感じがします。開放的なミドリも、読み終えてみるとただの狂言回しでしかも待っている女に変貌していますし。

13.精神鑑定とは何か 責任能力論を超えて 高岡健 明石書店
 刑事事件で精神鑑定を行ってきた精神科医である著者が精神鑑定の現状とあり方について語った本。刑事事件での精神鑑定が責任能力(心神喪失なら無罪、心神耗弱なら減刑、いずれでもなければ通常の刑)に偏っており、むしろ責任能力がある場合にも訴訟能力(裁判手続を理解し的確に防御する能力、弁護人との意思疎通能力)や情状の鑑定(精神病や過去の来歴等の心理学的要素の犯行への影響等の量刑に反映すべき事情)や受刑能力(刑罰を認識し、また矯正されうる能力)について鑑定すべきことや、責任能力の鑑定でもマニュアルに頼りすぎる傾向や臨床経験に乏しい者による鑑定への批判が語られています。現実に刑事事件で検察に依頼されて起訴前鑑定を行ったり裁判所からの依頼で鑑定を行っている医師が、現実に使用されているマニュアルとマニュアル頼りの鑑定を批判していることは、目を引きます。アメリカ精神医学会の診断マニュアルDSM−Wについて、列挙された症状項目のうち一定数以上の症状が認められれば○○障害と診断するような簡便な方法で「素人のアルバイトが統計調査を行うぶんには便利だが、臨床医学ではおよそ役立たない」(102ページ)と述べ、裁判員裁判を意識して作成された「刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き」についても「この7項目に従うだけで弁識制御能力がわかるというなら、精神科医が鑑定を行う必要はない。この『手引き』にのみ依拠する精神鑑定は、そういう意味で、鑑定医としての自殺行為だと思う」(108ページ)と述べているのは注目に値します。本の作り方として、無理に一定行数ごとに見出しを立てていて、話の流れが切れてないのに不自然な見出しがつけられていたりします(同じケースの話が続いているのに「○○(2)」とか)。読んでいて新聞のコラムかなんかの短文の連載かなと思いましたが、「あとがき」で見ると書き下ろしだというのでびっくりしました。

12.セクシャリティの多様性と排除 好井裕明編著 明石書店
 日本社会における性的なマイノリティに対する差別と排除について論じた本。シリーズ「差別と排除の〔いま〕」の第6巻。7人の筆者の「やおいはゲイ差別か」、レズビアン差別、男同士の結びつきと同性愛タブー、性同一性障害、トランスジェンダー、マタニティハラスメントについての6本の原稿が収められています。マイノリティの現状と、マイノリティ間の利害対立が論じられていて、統一感はありませんが、考えさせられる内容は多々あります。最初の原稿からして、扱う対象はサブカルチャーで、やおい(女性読者向けの男性間恋愛の物語)とゲイ・コミックの比較とかに力入れていることもあって軽い感じに見えるのですが、「見られる」側の性、性を娯楽とすることを抑制されてきた性である女性が、「やおい」の登場・拡大で「見る」側として性を娯楽化したことが、「見られる」側に回った男性であり男性のマイノリティであるゲイからの反発を受けるという一筋縄ではいかない問題状況を扱うものです。性同一性障害についても社会的に認知され、性別適合手術も合法化されて治療すべき疾病と位置づけられたことで、その路線に沿って性別適合手術を受ける人にとっては生きやすくなった側面があるとともに、性別適合手術を望まない、また「疾病」「障害」と見られたくない生物学的な性別と自己認識が不一致の人々が以前より潜行し排除されているという主張もなされています。研究論文として読むには、材料があまりに少数の事例(自分のまわりで見聞きした事例)やインタビューに限られている感じで、客観性や説得力の点で今ひとつですが、問題提起としては面白いものを持っていると思います。

11.余命18日をどう生きるか 田村恵子 朝日新聞出版
 癌看護専門看護師である著者が、末期癌患者を中心に治癒の見込みのない人たちの看護をするホスピスでの経験から死への向き合い方について感じていることを綴った本。死は現在生きている誰も経験したことがなく経験者の話も聞けず、個別性の強いできごとのためにマニュアル化ができず、決まった正解があるわけではなく、個別に向き合っていくしかない。しかし、日頃目を背けている死に対して末期癌患者のように死期がわかっていた方が死と向き合う時間がありよりよい死を迎えられるのではないか、最後の時間を生ききれるのではないかというようなことが、書かれています。自分の経験を振り返って、最初の頃は自分の考えを患者や家族に押しつけていたのではないか、自分の立場しか見えていなかったのではないかと反省するくだりは、仕事の内容が死に関わるだけに重みを感じさせます。ホスピスに入院した患者にお見舞いに行っていいか躊躇する人には患者に手紙を書くことを勧め、見舞いの品は何がいいかと迷う人には見舞いなんて必要だろうか、持ってきたいのなら事前に何か必要なものはあるかと患者に聞いた方がいいというアドバイス(90〜92ページ)が実践的です。タイトルは、著者の勤務するホスピスでの平均入院日数からだそうです(4ページ)。それにしても、18日、ですか・・・

10.チョコレートの町 飛鳥井千砂 双葉社
 名古屋市付近のチョコレート工場の企業城下町を嫌って東京に出て不動産会社の川崎の支店の店長を務める早瀬遼が、故郷の町の支店の店長の不始末の穴埋めのために期間未定で派遣されて地元で働く日々を通じて、実家の親族や同窓生たち、元カノ、そして東京の今カノとの関係を考え直して行く青春小説。実家の家族の距離の置き方、淡泊さというか無関心さが、コミカルでもあり現実的でもあり、また今カノの沙知のはっきりさっぱりした性格設定が、湿っぽくじめじめしがちなテーマをさらりとした印象にしている感じがします。語り手の早瀬の力の抜け具合と合わせて前半はコミカルな読み味に徹しています。ただ終盤になって、チョコレート工場が長いつきあいの地元企業の契約を切り、従業員のリストラや周辺住民への迷惑等を地元の人々が糾弾するシーンで、早瀬がチョコレート工場側に立ち、この町の発展はすべてチョコレート工場のおかげじゃないか、そういうことはどこの企業でもやってるじゃないか、不満があるからといって何でもチョコレート工場が悪いというのはおかしいじゃないかといいだし、地域を支配する企業がその圧倒的な力関係の下で下請けや従業員、周辺住民に押しつける不利益を無条件で正当化し従業員や住民が抗議することさえ不当なものとするのは、あんまりにも企業側の論理むき出しで興ざめでした。昨今、企業を守ることが雇用につながるとかの財界の論理に媚びて企業を優遇したがる政策が目に付きます。個人の所得税と消費税を増税してそれで(社会福祉の充実ではなく)法人税減税をやるとかいうことを平然といえる時代の風潮ともマッチするというところでしょうか。

09.武士道セブンティーン 誉田哲也 文藝春秋
 「武士道シックスティーン」で剣道を通じて友情をはぐくんだ攻め一筋の武蔵オタクおやじ女子高生磯山香織と観の目で打ち時を待つ日本舞踊出身の西荻早苗が、早苗が家庭の事情で福岡に転校して、全中決勝戦で負けた磯山が宿敵とする黒岩伶那が通う日本屈指の強豪校福岡南高校に移って東と西に遠く離れて互いを気にかけながら剣道を続ける続編です。攻め一筋だった磯山が無駄な動きをなくして一撃で仕留めることを指導されて待ちを覚え、打ち時を待つ西荻再度改め甲本が福岡南での猛稽古でパワーをつけ、ある意味で剣道のスタイルを近づけ、剣道に対する気持ちの面で互いを思い合う展開がいい感じです。孤高を保っていた磯山が部の強化に心を砕き、友人との和を心がけてきた甲本がルールギリギリのところで勝つことを最優先する福岡南のやり方に反発して孤立し、勝ちたい磯山は強豪の先輩の卒業で団体戦が勝てなくなり、勝負に興味を失う甲本は強いチームメイトに恵まれて団体戦を危うげなく勝ち続けるというらしくない展開の中で、それぞれが成長していく部分が青春小説しています。シックスティーン同様、磯山の語りと甲本の語りが交互に展開しますが、2人が遠く離れているので、別々の話が同時進行で、シックスティーンよりも展開が大きいのですが、読み味はシックスティーンの方がまとまりとテンポのよさと軽快さで勝っているような気がしました。
 武士道シックスティーンは2010年11月に紹介

08.生涯被告「おっちゃん」の裁判 600円が奪った19年 曽根英二 平凡社
 耳が聞こえず、話ができず「あっ」とか「うっ」という声しか出せず、しかも読み書きもできず手話もできない「おっちゃん」が600円の窃盗の被疑事実で逮捕されその他の窃盗と合わせて起訴された刑事裁判の様子を語るノンフィクション。つきあいの長い弁護人や支援者でも意思疎通は十分にできず、通訳人も被告人は「黙りなさい」ということは理解できるが「黙っていてもいい」とか「答えなくてもよい」とか「黙っていたければずっと黙っていてもよろしい」ということは通じないと述べていて裁判での黙秘権の告知さえできない。弁護人はそのことを訴えて、被告人には刑事手続が理解できないとして裁判の打ち切りを求め、1審判決はそれを認めたが、高裁では訴訟能力が回復するまで公判手続を停止する方向の判断がなされ、最高裁もそれを追認し、「おっちゃん」はずっと被告人のまま公判手続が停止された。「これでは生涯被告人のままじゃないか」という弁護人らの訴えは裁判所に通じなかったが、「おっちゃん」が死の床に伏せるようになって初めて検察官が訴えを取り消して裁判が打ち切られた。裁判の手続も、目の前にいる裁判官や検察官がどういう人かも理解していない被告人に対して刑事裁判を続ける意味があるのか、19年も被告人とし続けたのはひどいのではないかというのがテレビ記者の著者の主張となります。このようなケースで裁判所の判断での打ち切りができず、結局は検察官に公訴取り消しをしてもらってようやく打ちきりにした裁判所の姿勢が問われます。ただ私としては、むしろ弁護人や長年つきあっている支援者でさえ十分な意思疎通ができない被告人に、詳細な自白調書ができていることの方が怖いし、そんなの警察官が勝手に作文したのを訳もわからずに署名させられたに決まってるじゃないのと裁判所が一蹴できないところがまた情けなくて怖い。警察も検察も科学捜査ではなく自白に頼った捜査だからそういう無理な調書作りをしなきゃならないという側面もあり、いろいろな意味で日本の刑事裁判の欠点・歪みを考えさせられる本でした。

07.ドーン・ロシェルの季節3 いつまでも忘れない ローレイン・マクダニエル 岩崎書店
 13歳で急性リンパ性白血病となった少女ドーン・ロシェルの物語第3巻。1巻、2巻ではそれぞれ1年を描き、悪化しては治療法を試みて回復するという展開でしたが、3巻では15歳になったドーンの夏休みだけが描かれ、ドーンは寛解期で悪化しないという状態で推移します。化学療法、骨髄移植と進み、次はと展開してしまうと続けられないからという気がしますが、今回は、ドーンはサマーキャンプでスタッフになり、癌で不安な子どもたちをサポートする側になります。一方で寛解状態となって癌とは関わらずにふつうの生活を送りたい、腫瘍病棟には足を踏み入れたくないという思いと、癌で苦しむ子どもたちの希望の星になって欲しいと望むキャンプスタッフや医療従事者たちの願いに挟まれ、戸惑いながらキャンプに参加するドーンを、問題児マーリーが掻き乱し、マーリーの心を開かせていく過程でドーンが成長していく様子がすがすがしく読めます。例によって、せっかく友達になったマーリーは癌が悪化してドーンの元を去る定めですが、そこからまた新しく始まる生活が、ドーンをさらに成長させることが予想されます。
 第1巻、第2巻は2010年9月に紹介しています。

06.ランプコントロール 大崎善生 中央公論社
 出版社の編集者の高林直人が、27歳の時にフランクフルト赴任を命じられて、大学時代から5年間つきあい週末同棲の関係を続けてきた銀行員山本理沙と結婚を決断できずにしかし未練を残して別れ、フランクフルトで落ち込んでいたところを慰め合った同僚のステファニーと関係を結ぶが、3年後に日本に戻り、理沙のその後を知り・・・という筋立ての恋愛官能小説。日本を発つときも、フランクフルトを発つときも、恋人との将来を約束するでなく肉体を重ねる関係に終始して距離が離れることで壊れる関係を、どうしようもなかったと振り返り、結局すぐに思い出にしてゆく主人公の姿勢が、安易で無責任で情けない。転勤・海外赴任を命じる企業の冷酷さも、もちろん大きいのですが。情景や心象風景の描写・言い回しが小じゃれて巧みなところがあり、それで救われているとは思うのですが、失恋への感傷と、感傷に浸る自分へのナルシシズムと、そしてあまりの都合良さが、ちょっと読んでいて恥ずかしい。それにたぶん連載1回に1度はという感じの頻度の濡れ場シーンがかなり露骨で、これは恋愛小説じゃなくて官能小説と分類するしかないと思いますが、通勤電車で読むのがかなり恥ずかしい。これほどまでに男目線の男に都合のいい展開の官能小説が、「婦人公論」連載というところがまた驚きです。官能小説がということじゃなくて、こんな男に都合良く書かれた話を女性読者が喜んで読むんだろうかって。まぁ、ラストが「君に読む物語」っぽくて、そこだけは女性受けしそうな気はしますけどね。

05.実践的eディスカバリ 米国民事訴訟に備える 町村泰貴・小向太郎編著 NTT出版
 アメリカの民事訴訟において正式事実審理(トライアル)前に行われる関連情報の開示(ディスカバリ)が近年電子情報にも及び、それをeディスカバリと呼んで、そのルールと実情を解説し、日本企業においても日頃から準備しておくべきことを提言する本。以前から、アメリカの民事訴訟手続に関する本を読む度に、大企業と戦う側の弁護士にとってうらやましく思うのが、ディスカバリ、陪審制、懲罰的賠償の3点セット(クラスアクションを含めて4点セットでもいいですが)。現在のeディスカバリでは、特定の人物の電子メール全部とか特定のキーワードを含む電子メール全部とか、コンピュータのハードディスクをコピーしてミラーイメージを作成して弁護士の監視の下で検索して情報を抽出したり削除されたファイルの復元・提出を求めるとかも可能だそうです。しかも、アメリカのディスカバリでは裁判上必要な証拠自体だけでなく証拠を発見するための情報も対象となる上に、開示しない場合にはかなり厳しい制裁(高額の賠償金の支払の他に、訴訟上の主張や立証活動の制限など敗訴につながる制裁やさらには直接裁判の終結や敗訴ということさえある)があり、現実に命じられています。読んでるとため息が出ます。企業側の弁護士は反対の意味でため息が出るでしょうけど。日本にこういう制度が導入されれば、一市民が大企業や国に裁判で勝つ可能性がグッと高まると思うのですが、百年河清を待つ、でしょうね。マスコミが好意的な近年の「司法改革」は財界主導のものですから、大企業に不利な制度は絶対に導入されませんからね。「裁判員」が素人だけで職業裁判官が入らない「陪審」を避けるために考案されたものである上に、民事裁判での導入は拒否されたことに典型的に見られるように。大マスコミは、司法修習生に給与を払うのは税金の無駄遣いで、貸与制への切替に反対する日弁連は司法改革に反するなんてつまらないことを言っている暇があったら、こういうディスカバリのような訴訟に関係する手持ち情報をお互いに開示して共有しようというとてもフェアなやり方なのに大企業や国が損をするから導入できずにいる制度をこそ後押しすべきだと思うのですが。前半はアメリカでの制度やルール、実情が解説されていて、弁護士としては、強い関心を持って読めました。後半は、アメリカの裁判手続に巻き込まれて開示を求められたときにすぐにかつ正しく対応できるように日頃から文書管理をきちんと行っておけという話が中心で、抽象的になるのと、監修者のデジタル・フォレンジック研究会とかの企業向けの売り込みっぽく感じられたので、眠くなりました。

04.海のプロフェッショナル 海洋学への招待状 窪川かおる編 東海大学出版会
 海洋の生物や生態系、環境問題、海洋そのものの物理化学的解明、気象との関係、深層水循環や海洋底、プレートテクトニクスと地震、海底火山など様々な分野が複合する海洋学についての紹介と、研究者リクルートのためのガイドブック。第1部は幅広い分野から海と地球について解説していて勉強になります。私としては、深海の熱水噴射域での硫化水素や重金属から有機物を合成する生物による化学合成生態系(地表や浅海での光合成生態系に対置して)の存在(40〜42ページ)や海洋底堆積物からの地球の歴史の分析(65〜70ページ)、プレート境界でのマグマの挙動と火山や地震(71〜85ページ)などに興味をそそられます。第2部から第3部は研究者、特に女性研究者の生活や研究スケジュール、職場の様子が書かれていて、研究者の生活がイメージできます。この本は、女性研究者グループが主として女性に研究者を志してもらうために書かれたもので、この部分に重点が置かれています。紹介されている職場は多くが政府関係で、民間企業が2人、水族館とフリーランサーが1人ずつ。安定感はあるけど寄らば大樹でないと研究が難しいという印象も残り、フリーランサーの健闘はありますが収支が書かれてなくてたぶん大変だろうなと思ってしまいます。また研究者となると予算獲得や研究費助成を得るために1年単位でのスケジュールで動く必要があることも実感させてくれます。部外者からは、研究者の研究生活を垣間見させてくれる本ともいえます。

03.もの忘れと認知症 J.C.ブライトン みすず書房
 認知症や類似の病気についての説明と高齢者の生活、介護、終末医療等について解説した本。前半は、アルツハイマーを中心に認知症に至る各種の疾病についての説明が続いています。「パンチドランカー」なんて、「あしたのジョー」世代には懐かしい言葉も出てきます(16ページ)。「パンチドランカー」って今でいうと認知症なんですね。あぁ、カーロス・・・。それも含めてずいぶん様々な病気から認知症に至るのだと、知らなかったことがわかりますが、このあたりは素人には難しい感じですし、老化によって当然に記憶障害が生じたりするわけではない、老化だと考えずにとにかく早く医者に診せろという話が多い。ただ、医療関係者の宣伝っていうのでもなくて、多剤併用による副作用のリスクを強調していて、医療側の問題も指摘されています(アルコールやハーブやサプリメントと薬の併用の危険も強調していますから、結局は医者に何でも打ち明けて相談しろということではあるんですが)。認知症の予防についても、解明されておらず効果が確認はされていないとしながらも、知的活動の継続、果物、野菜、穀物を食べ飽和脂肪は減らす、定期的な運動等を勧めています。後半は、認知症のみならず、高齢者のケア、生活と介護について、参考になりますし、考えさせられます。全体として同じ事実の繰り返しが多く、読んでいてちょっとくどいなぁという印象を持ちます。

02.ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 辻村深月 講談社
 仲のよかった母親の死体を残して失踪し重要参考人として行方を追われている望月チエミを探して友人や恩師を訪ね歩く幼なじみのフリーライター神宮司みずほと関係者の共感と確執を描く青春ミステリー小説。神宮司みずほが行方不明の望月チエミを追う長い長い(ページ数の8割近くを占める)第1章と短い第2章で構成されています。ミステリーとしては強い緊迫感はなく、といってだれない程度には緊張感が維持されていて、手頃な読み物というところだと思います。ストーリーよりも、登場する女性同士の互いにバカにしたり嫌う中でのさや当て、嫉妬、冷たさ、意地悪と、しかしそれでも良くも悪しくも維持される友情という人間関係の複雑さというか難しさの方が読まされる感じがしました。こういうことで驚いてしまうのは、女性に対する幻想を持ちすぎということなのかも知れませんけど。タイトルの意味は最後に明かされますが、最後に持ってくるほどのネタだったかはちょっと。私自身は、このタイトルを見たとき、これは読んでおかねばと思って読んだのですが。なんせ、事務所の私の専用電話の番号なものですから。

01.僕の明日を照らして 瀬尾まいこ 筑摩書房
 幼いときに父が死にスナック経営者の母に女手一つで育てられた中学2年生陸上部の隼太の、学校生活や母の再婚で同居することになった歯科医の優ちゃんとの関係を描いた青春小説。何事もそつなくこなし、人望もそこそこある隼太の鬱屈した部分や苛立ち、友人やガールフレンドとの間合いの取り方などが、お気楽でもなく暗くもなくほどよい読み具合です。しかし、この作品の人間関係の中心は、二重人格ともいえるふだんは朗らかで優しい優ちゃんが2人きりの夜に突然キレて隼太を殴りつけ、しかしその後正気に返って後悔しこのうちを出て行くというのを隼太が止めるという義理の父子の屈折した関係にあります。DV被害者の隼太が、もちろん優ちゃんがキレなくなる方策を考えながらですが、加害者の優ちゃんを許すのみならず母に話すというのを口止めし一緒にいたいと言い続ける様子、またDV加害者の優ちゃんのふだんの優しさの描写は、ちょっと異様です。隼太のような考えを持つDV被害者もいるかも知れませんが、それはかなり少数派だろうと思います。このような描き方は、DVをステレオタイプで捉えるのではなく、様々なあり様をイメージさせる、あるいは加害者とともにあることで克服するという方向にも読めるかも知れませんが、現実的にはDVを相対化し容認する、当事者でないまわりの者が介入せずに傍観し、結果としてDV被害者の孤立を招くような方向性を持っているようで、ちょっといやな感じがしました。

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