庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2014年8月

11.瞬間の記憶力 競技かるたクイーンのメンタル術 楠木早紀 PHP新書
 中3で競技かるた(百人一首)の最年少クイーンとなり執筆当時8連覇中(現在10連覇中)の著者が、百人一首での記憶とその切り替え、集中力、メンタルコントロールなどについて説明した本。
 百人一首で記憶力や集中力を高めることがほかの領域でも役に立つということを、タイトルや見返しで謳い、著者も時々言及しています。事実としてそういうことはあるでしょうけど、それはある種付け足しというか結果論の領域で、読者層を拡げる目的でそういう言及をしているのでしょうけど、純粋に競技かるたクイーンの苦労話、ノウハウ、打ち明け話として読んだ方が適切でしょうし楽しめると思います。
 百人一首を全首暗記、下の句(取り札)→上の句(決まり字まで)、上の句(決まり字)→下の句の完全暗記は当然として、試合では札の配置の暗記とそれが競技の進行に応じて変わっていく過程で記憶を切り替えていくことが重要というあたりまでは、想定できましたが、1日に何試合もするので1試合が終わるとその試合で覚えた配置をすべて記憶から消去しないといけなくてそれが難しく特に大差で勝つと敵陣に多数の札が残った状態でその場を離れるのでその残像がなかなか消えないとか、上級者ならではの悩みがあるようです。上級者になると読手の発する音の先を聴き分けるという能力があり、たとえば1字決まりの「寂しさに」も普通の人は「さ」の音を聴いて札を取りに行くが、名人戦やクイーン戦では「s」が発せられた途端に札が飛んでいる、次に来る音によって「s」の聴こえ方が微妙に違うそうです(72〜73ページ)。2字決まりの「憂かりける」と「恨みわび」も「う」が発せられた時点で「う」から「か」に続く時と「ら」に続く時で聴こえ方がほんのわずかに違い「か」に続く時の方が「ら」に続く時よりも「ちょっと尖ったように」感じられる(73ページ)、さらには読手が発音する前でも「あ」や「お」から始まる歌だと、読手が息を吸って次の歌を詠もうとする瞬間「空気が丸くなったように感じる」とか(73ページ)。何事もプロ、達人の技には、常人からは計り知れないものがあります。
 相手に自陣の札を抜かれた時やお手つきをした時、同時に札に触れた時(セイム:選手同士で話し合ってどちらが先か決めるそうです)に自分の意見が通らなかった時など、それによる差自体よりも動揺してペースを崩すことが問題で、そういったときの気持ちの切替の重要性が繰り返し語られています。むべなるかなですが、15才でクイーンの座についた著者がそういうことを習得していく姿には感心しました。

10.検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 創元社
 砂川事件で米軍駐留は憲法第9条違反として米軍基地敷地への侵入を重く処罰する刑事特別法は無効であるから米軍敷地内へのデモ隊の侵入を刑事特別法により起訴された被告人は全員無罪とした1審判決(伊達判決)を覆そうと画策するアメリカ駐日大使とその指示に従う日本政府高官と検察庁、そしてアメリカ大使と私的な交流を続ける田中耕太郎最高裁長官の動きを1つの軸に、ベトナムへの戦車輸送のための橋の通行に対して飛鳥田横浜市長が道路法に基づく車両制限令の積載重量オーバーを理由に不許可としたことに対してアメリカが圧力をかけてわずか2か月のうちに日本政府が米軍車両を車両制限令の対象外とする改正を行ったことをもう一例として、安保法体系と米軍の憲法体系への優越と、日本政府の対米従属のありさまを解説した本。
 砂川事件への対応では、この本では田中耕太郎最高裁長官の言動に重点を置いていますが、私の感覚では、マッカーサー大使から1969年3月31日(伊達判決の翌朝)午前8時に最高裁に跳躍上告すべきだと言われた藤山外相が即座に全面的に同意すると言い午前9時からの閣議で上告を承認するよう促したいと述べた(16〜21ページ)とか、最高裁での弁論で弁護側から駐留米軍が台湾海峡事件の際に出動したことを指摘したのに対してアメリカのハーター国務長官が台湾海峡作戦の際に日本の基地は実際に使われたが検察は「第七艦隊は西太平洋中で同艦隊が利用できるさまざまな基地を活用した」と述べることができるとあいまいな表現でごまかすことを示唆しこれを受けた最高検は最高裁で「外務省を通じて米大使館に問い合わせたが、『合衆国艦隊の一部が一九五四年五月南支那海に、一九五七年台湾海峡にそれぞれ存在したが、これらの艦艇には安保条約にもとづいて日本またはその周辺に配置された艦艇を含まず、またこれらの艦艇は日本の海軍施設を基地として使用しなかった』むねの回答に接した。すなわち日本基地より出動したことのないことはあきらかである」と虚偽の弁論した(106〜113ページ)といったあたりの方が驚きでした。安保改定で対等の条約になる、重要な変更には「事前協議」がなされると国民には言いつつ改定前と同様の権利を米軍に保証し核持ち込みは事前協議の対象としないなどの密約を交わしていたこととあわせ、自民党の政治家たちのアメリカへの追従ぶりは、文字通り売国奴と呼ぶべきものだと思いますし、検察官というものはこれほどまでに平然と嘘の弁論ができるのだということがよくわかります。
 砂川事件に関して検察は最高裁では「刑事特別法2条は(軽犯罪法ではなく)住居侵入罪の特別法にあたりこれと比較して刑罰は重くない」と主張したようです(87ページ)。そうだとすれば米軍を特に守っているということではなくなってこの事件では憲法判断の必要性がなくなるとも言え、ある意味で実務的には工夫の跡が見られるおもしろい論点ではあります。しかしそれなら検察は最初から住居侵入罪で起訴すべきだったわけで、1審で無罪になったから慌ててそれを言うのでは説得力を持ち得ません。
 砂川事件最高裁判決に焦点を当てた部分と、安保改定を中心とする日米政府の交渉と密約、日本政府の国会答弁等の変遷、アメリカの秘密指定解除文書の発見の経緯などを論じる部分が、時間的関係や論理的な関係が今ひとつ整理されずに並びダブりもあって、全体としての「雰囲気」は統一されているものの、論述としてはやや散漫な印象が残りました。時代背景や遡った説明を省略して秘密指定解除文書関係に絞り込んだ方が迫力があっただろうと思います。

09.夜の写本師 乾石智子 創元推理文庫
 右手に月石、左手に黒曜石、口の中に真珠を持って生まれてきた宿命を背負った少年カリュドウが、養母の女魔道師エイリャと幼なじみの少女フィンを、城砦都市エズキウムを護る世界一の魔道師と呼ばれる魔道師長アンジストに目の前で殺され、書物やお札を通じて呪いをかける「夜の写本師」として修行を積み、アンジストへの復讐を図る呪術・魔術系ファンタジー小説。
 読み味としては、最初はゲド戦記の雰囲気に思えたのですが、次第にハリー・ポッター風に収斂して行って終わるという印象を、私は持ちました。中盤の第4部でカリュドウが背負った過去の女魔道師たちの非業の死と怨念を「月の書」に吸い込まれて体感していく展開は、ハリー・ポッターの「ペンシーブ」(松岡訳では「憂いの篩」でしたっけ)を思い起こさせますし、相手を殺して自らの魔力を強めていく魔道師長のイメージはやはりヴォルデモートですしね。
 女魔道師を殺し続けるアンジストの支配の下女性差別意識の強いエズキウムの街という設定で、実力のある同僚ヴェルネを配し、終盤で「あたしたちは魔道師にはならない。あなたが言うように、闇に侵されるようなことはしない。けれど、魔法を無効化し、魔道師と対等になることができる。この意味わかる?女は男のもつものをもたないけれど、女にしかもてないものをもって男と対等になることができる。それと同じ。互いに虐げもしないし、侵しもしない。否定もしない。その土壌から、理解しようと手をさしのべること、尊びあうこと、助けあうことが生まれると思う。あたしたち、きっと変わるわ」(282ページ)と高らかに宣言させています。アンジストに対抗する女の力、女の魔術を強調していることも含めて、フェミニズム的な側面を読み取ることもできますが、ヴェルネの花は咲かず、カリュドウの思慕の対象となるフィンはか弱く、その死に責めを負うべきセフィヤは大きな存在たり得ず、読後にしっかりとした印象を残す提起には感じられませんでした。
 1000年の時間を超えて、登場人物も増やした結果、アンジストとカリュドウと2人の仲間の生まれ変わりを追うだけで手一杯になり、本来魅力的に育てられる脇役たちには手が届かなかったかなと感じました。

08.弱者の戦略 稲垣栄洋 新潮選書
 生物の世界での「弱者」の生存戦略について解説した本。
 弱肉強食と言われる生物の世界で、食われる側の「弱者」は多数生存し、食物連鎖のピラミッドの頂点に立つ「強者」は多数の食物があって初めて少数だけ生存でき、絶滅危惧種とされるのはむしろ「強者」の生物だということが最初に紹介されています。そういうある種当然なのだけど指摘されてみてなるほどと思うようなエピソードを集めた本です。
 農薬を撒くと、ほとんどの害虫が死ぬが1万分の1から10万分の1くらいの割合で農薬に耐性のある突然変異の個体がいて害虫は数が多いのでその農薬に耐性にある個体が生き残る可能性が高くその数少ない個体が子孫を増やして農薬に抵抗性のある個体が増えていくが、他方害虫の天敵(クモなど)は個体数が少ないので農薬で死滅する可能性が高いから農薬を撒くと害虫が増えるという現象が生じうる(51〜53ページ)。外来種が固有種を駆逐するように言われているが、例えば西洋タンポポは日本タンポポが生えるような郊外の自然の多いところでは日本タンポポに勝てず、土木工事によって自然が破壊されたところに生えているのであり、日本タンポポの生存場所を奪い西洋タンポポを繁栄させているのは人間である(56〜58ページ、98〜99ページ)。雑草も他の植物が生える場所では競争で負けてしまい、人間が草むしりをするような他の植物には過酷で生存できない環境でのみ繁茂できる(19〜21ページ)。環境変化が激しいところでは、新たな環境ぬ順応する個体をつくるために世代交代を速めた方が有利であるから、生物は短い命に進化する(114〜115ページ)。こういった指摘に、ふ〜んと思いながら、ちょっとお勉強というか新たな角度からの見方を得られるというところに価値がある一冊です。

06.07.タラ・ダンカン11 宇宙戦争 上下 ソフィー・オドゥワン=マミコニアン メディアファクトリー
 魔術が支配する「別世界」の人間の国「オモワ帝国」の世継ぎの18歳(11巻時点)の少女タラ・ダンカンが、様々な敵対勢力の陰謀や事件に巻き込まれながら冒険するファンタジー。
 11巻では、煉獄にあったはずの悪魔の惑星6つが別世界にワープしてきて、悪魔の王アルカンジュは別世界を攻撃するつもりはないと言明するが、アルカンジュの父の前王ヴァッシュはアルカンジュの弟ガブリエルに命じて着々と陰謀を進め、悪魔の侵略を確信したオモワ帝国の女帝リスベスが地球の人間界にこれまで隠し続けてきた魔術師と別世界の存在と悪魔たちの危険を知らせたところ、マジスターが地球を守ってやるから地球の全軍の指揮権を引き渡すよう要求し…という展開をし、悪魔の世界に潜入したタラたちの見聞を通じて悪魔の世界の内部事情や路線対立を中心に描いています。10巻に引き続き主として悪魔の世界を描くことで当初10巻完結と宣言していたのを2巻分引き延ばしたのではないかという印象を持ちます。11巻下の終わりで例によって急展開の「続く」がありますが、黒い彗星の正体が11巻の最後で明かされてしまっていることからして、12巻の冒頭で11巻最後の危機は軽く処理されて12巻は別の展開になるんじゃないかと、私は予想します(2014年9月18日発売予定の原書12巻のタイトルが「最後の希望」ですから、11巻最後の危機が人類の大ピンチとなりタラが最後の希望というパターンもあり得ますが、このストーリーをあっちこっちへ何度も大展開させるのが好きな作者が1巻まるまるかけてそういうまっすぐな展開をするとは私には思えません)。
 シリーズ開始から10年がたち読者の年齢層が上がりタラも18才になったことを反映して、11巻ではシリーズ初めてのセックスシーンも登場し、リスベスからタラにセックス禁止令が出されます。マジスターと訣別してドラゴッシュを選びながらマジスターから自由になれないセレンバと、惑うセレンバを一途に思い続けるドラゴッシュの悩ましい大人の関係も、ちょっと切ない。こういう関係がこのシリーズの中心的な読者層の中高生女子にわかるんだろうか。
 11巻で発明好きのおじいちゃんムールミュールとムールミュールより頭2つ分背が高い熟年のアマゾネス軍団の元司令官ヘーグル5のカップルが登場します(67〜71ページ)。男性の方が大幅に背が低いカップルがファンタジーや恋愛小説に登場すること自体珍しく、高齢者の愛情表現も合わせて、微笑ましく思えました。
 女の子が楽しく読める読書ガイドで紹介しています。10巻は2013年8月分21.22.で紹介しています。
 追記:原作12巻のタイトルは「最後の戦い」に変わったもよう…

05.イラク戦争は民主主義をもたらしたのか トビー・ドッジ みすず書房
 米軍侵攻・占領後米軍撤退まで(2003年〜2011年)のイラクの状勢、特に民間人死者数の推移と軍事・政治部門でのプレイヤーたちの動向から、「破綻国家」「独裁国家」への人道的介入と国家再建というドクトリンの下行われたイラク戦争についての評価を検討する本。
 著者は結論的に「この介入と国家再建のドクトリンによって、イラクではいったい何を達成できたのだろう。米軍側の死者は、イラク撤退の時点で四四八七人に達している。戦争とその後の暴力によって死亡した民間人は、イラク・ボディ・カウントの控えめな推計値によれば、二〇一二年一一月現在で一一万一一〇人から一二万二九三人の間である。戦後の復興のためにアメリカとイラクの国庫から投じられた資金は、一二年九月までの時点で二一二〇億ドルにのぼる。」「何万人もの民間人が命を落とし何十億ドルもの金が費やされたにもかかわらず、市井の人々の生活は、国家との関係および経済という点についていえば、体制転換以前の状況と何ら変わらないのである。」「外部国家が他国に介入し、経済と政治に持続可能な変化をもたらすなどということが、そもそも可能なのだろうか。イラクでの経験は根本的な問いを投げかけている。」(182〜184ページ)としています。
 私が最も興味を引かれた指摘は、イラクの新政府がバアス党とスンナ派を追放し、シーア派とクルド人を中心に構成され、警察が公然とバグダードなどでスンナ派住民を攻撃し追い出しスンナ派が暴動を起こすという情勢の下で、米軍がイラク中西部のアンバール県でのメソポタミアのアルカイーダとスンナ派住民の民兵組織の対立を利用してアルカイーダと対抗したことをモデルに各地の民兵組織と契約して資金提供することになったが、その際写真、指紋などの生体認証情報が登録され、その大半がスンナ派の民兵であり、マリキ政権が米軍からその指紋などの政体確認情報の引き渡しを受けその情報を駆使して民兵組織の幹部を逮捕していったという点です(71〜86ページ)。イラクの権力をめぐる抗争の中でのマリキのしたたかさとアメリカ政府・米軍の場当たり的対応という面もありますが、アメリカ政府・米軍を信用するとどうなるかという好例だと思います。一貫性や誠実性がない政府は、別にアメリカだけに限ったものではないと思いますが。
 テクノクラートを追放したために機能しない行政の下で市民が政府に期待を持てない状況、それを尻目に政権エリートは政権内での権力抗争に明け暮れ、その中ではマリキがしたたかに独裁体制を固めていく様子、アメリカ政府との関係では占領下のイラクが日本政府とは違って属国の屈辱を跳ね返して米軍の撤退を勝ち取った経過など、報道ではなかなかわからない事情が読み取れます。マリキの術策とそれに対するアメリカの反発などの事情を読んだところで、タイミングよくマリキの退陣表明(2014.8.14)の報に接しましたが、感慨深いものがありました。
 冒頭で、イラクの状勢が「内戦状態」にあることを、イラク・ボディ・カウント発表の死者数を根拠に論じるなど、いかにも学者が現地と無関係に机上でデータだけで分析しているという感じがしますが、報道ではあまり知ることができないその後のイラクについてイメージするのによい本かなと思いました。

04.考証福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか 石川迪夫 日本電気協会新聞部
 長年日本原子力研究所(原研)、旧科学技術庁の原子力安全顧問、経産省の原子力発電技術顧問等で、原子力発電を推進してきた(有馬朗人氏の「発刊によせて」によれば「我が国が誇る原子力安全工学の第一人者」とされる:3ページ)著者が、福島原発事故の事故の進展や現象の解釈について「大体解明できた」(10ページ)として、炉心溶融と水素爆発のメカニズムを考証し、総合的な原子力の安全と福島の復興についての見解を述べた本。
 著者自身が「本書の最大の目的は第一部に凝縮されていますので、ここをじっくり読んでいただければと思います」(10ページ)という第一部で、福島原発の1号機から4号機の事故の進展、炉心溶融と水素爆発の経緯についての著者の見解が述べられています。
 著者の指摘の特徴は、日本の原子力関係者の現役世代(著者は「若者たち」と呼んでいますが)がTMI(スリーマイル島原発)事故やチェルノブイリ原発事故を十分に学ばずコンピュータによる解析に頼りすぎていることへの批判と、その指摘を反映してこの本では解析によらずに実測データの変化を自己の仮説で説明しその一部は著者が「目の子計算」と呼ぶ手計算で示しているところにあります。このサイトをご覧になる方はたぶんご存じの通り、著者と私は原発について真逆の立場にありますが、私は、著者のこの方法論的な姿勢については好感を持っています。コンピュータ解析について著者が「今回の事故は極めて複雑で、事前に頭の中で作られた計算コードの内容に含まれていない現象が多く含まれています。従って、計算結果は事故現象とあまり一致していません。無理に一致させようとしてインプットをチューニングすると、事故全体の整合性が成り立たなくなります。」「明快な説明ができない理由は、事故現象についての物理化学的な現象を解明しないまま、コンピュータの計算に頼るひ弱い解明方法にあります。」(9ページ)と指摘しているところは、私もその通りと考えています。また手計算での裏付けは、大筋の方向性の正しさを示しかつ第三者が検証しやすいことからも、望ましいものと考えます。過去の原発訴訟でも私は基本的に手計算(といっても表計算ソフトは使いますが)の裏付けを示すようにしてきました(国側からは解析コードがブラックボックスの上にインプットデータも示さない解析結果が述べられるだけで、概要計算が示されたことは一度もありません)。
 そして、著者が、TMI事故の調査検討と実験施設での燃料棒溶融実験の結果から燃料被覆管の酸化皮膜のために崩壊熱による燃料溶融は簡単でないとして、福島原発事故でも燃料棒が露出してすぐに崩壊熱で炉心溶融が生じたとするのは誤りで、燃料露出後長時間が経過して燃料温度がかなり高温になった後に消防車による注水があってその水によってジルコニウム-水反応が激しく起こりその発熱で炉心溶融に至った、炉心溶融の時期は東電の解析よりも相当程度遅いと主張することも、私は一つのありうる仮説と考えます。長らく炉心溶融を否定し続けた東電が、炉心溶融を認めるやあっという間に炉心溶融とメルトスルーが発生したという解析(それはある意味で事故発生後は何をやっても防げなかったということにつながり、事故後の対応を正当化するものでもあります)を発表したときに、直感的にではありますが、これはいくら何でも速すぎると私も考えましたし。もちろん、炉心溶融の経過・時期等については具体的な証拠が足りず未解明で、著者の主張も一つの仮説としてありうるというだけですが。
 さて、著者が一番重要という第一部で最も残念な点は、水素爆発の経過と原因です。著者は、1号機と3号機の水素爆発について、炉心でのジルコニウム-水反応で発生した大量の水素が格納容器の蓋を持ち上げてフランジ部から格納容器上部とコンクリート建屋の間の狭い空間(原子炉ボールト)に吹き出してボールト部の圧力が上昇して遮蔽プラグを持ち上げてその隙間からオペレーションフロアに吹き出すとともに、持ち上げられた遮蔽プラグが落下した際に火花が生じてそれが着火源となって水素爆発が生じたとしています(113〜114ページ、148〜152ページ、174〜176ページ、184〜186ページ、196〜197ページ)。著者の主張は、原子炉ボールトと遮蔽プラグの間には隙間がなく、格納容器フランジ部から原子炉ボールトに吹き出した水素が隙間から漏洩することはなく遮蔽プラグを持ち上げるほど高圧になることを前提としています。著者の説明と掲載されている151ページ(チェルノブイリ原発の遮蔽プラグ)と196ページ(福島原発1号機から3号機の遮蔽プラグ)の図や遮蔽プラグの厚さを約2メートルとしていること(113ページ、114ページ)からすると、著者はどうも福島第一原発1号機、3号機の遮蔽プラグがチェルノブイリ原発同様一体(1枚)のものと考えているように見受けられます。しかし、福島第一原発では、遮蔽プラグ(シールドプラグ、コンクリートハッチとも呼ばれます)は3層に分かれて各層の厚さは60cmほどで、各層の間に10ミリ程度の隙間がある上に各層が3枚で構成されています(3号機についての東電の説明図と写真がこちら、6号機についてですが取り出し中の写真がこちら)。水素はそれらの多数の隙間からオペレーションフロアに漏洩していったと考えるのが素直だと思います。TMI事故やチェルノブイリ事故に学ぶことは大切ですが、福島原発事故では当然TMIやチェルノブイリとは違う点が多数ある訳で、そこを十分調査検討しないで無理に同じとされては困ります。また、著者の主張は、1号機では5階(オペレーションフロア)のみで爆発が生じたことを前提としています(著者はそれを「推理の鍵の一番手」としています:174ページ)。しかし、1号機では5階だけでなく4階でも水素爆発が発生していることは、4階での各種のものの変形の方向等から明らかと私は考えています(田中三彦氏が指摘し、新潟県技術委員会で議論中。東電はまだ認めてはいませんが)。
 このように、著者のこの本での主張の中心をなす水素爆発の経過については、前提に誤りがあり、その結果著者の主張も残念ながら誤りと考えられます。
 第二部は、このような予想外の津波と長期間の電源喪失がありながら東京電力の運転員はよくやった優秀だ、日本の原子力安全技術はたいしたものだ、2号機のベントがうまく行くか注水が数時間早くできていれば放射能放出量は避難を要しない程度だった、政府は避難が必要ない段階で強制避難をさせて60名が緊急避難に伴って死んだ、政府は外部電源の復旧に全力を注力すべきでありそれができていれば事故に至らずに済んだ、など、ウルトラ推進派の面目躍如の言いたい放題が並んでいます。
 著者の主張によれば14日の深夜までは住民避難は必要なかったそうです(235、239ページ)。著者のいう避難の基準自体疑問に思いますが、それを置いても、1号機(12日午後3時台)と3号機(14日午前11時台)で水素爆発が起こり2号機がコントロールできない状況にある状態でもまだ住民を避難させないという選択は常識的にはあり得ないと思います。そして、著者は住民避難や電源対策等について政府の対応を強く非難していますが、当時官邸に詰めていた保安院や原子力安全委員会の原子力の専門家たちが事故の進展と対策について何一つ提言できず、何を聞いても「わからない」と言うばかりだったためにもともと素人の政治家たちが手探りで対策を進めざるを得なかったことは、「検証福島原発事故 官邸の一〇〇時間」(木村英昭、岩波書店)、「首相官邸で働いて初めてわかったこと」(下村健一、朝日新聞出版)等で明らかになっています。対応が誤っていたとしても、責めるべき相手は政府首脳ではなく、原発を推進してきた「専門家」だと思います。著者は、東電に対しては、後知恵で非難するのは誤りとして、運転員はよくやったと言い続けているのに、当時の民主党政権に対してだけは平然と後知恵で非難を繰り返しています。そもそも、緊急避難で死んだ人たち(入院患者や介護施設入所者)は、原発事故がなければ死なずにすんだもので、それを事故を起こした東電のせいではなく避難をさせた政府首脳のせいだというのですから、呆れます。

03.民事事実認定論 加藤新太郎 弘文堂
 2009年4月から既に5年以上にわたり東京高裁第22民事部の部総括判事(裁判長)を務める著者が、民事裁判の事実認定についての理論的な側面を学説と判例を検討して論じるとともに、現場での事例と感覚を紹介しつつ事実認定の実務・実情を論じた本。
 この本全体では理論的な検討部分の方が多いのですが、弁護士としては、証拠書類や証人の信用性の評価に関する部分が大変興味深く、ためになります。実務の経験上実感し、度々依頼者に言っていることですが、裁判官からハッキリ書かれると、重要性を痛感する点が多々あります。例えば陳述書の信用性について。「長いばかりで、論旨が明らかでない陳述書は、裁判官に(相手方にも)要証事実は認めがたいという印象を与える。」「効果的で、高い証拠評価を得る陳述書とは、どのようなものか。一言でいえば、その本人、その証人でなければ認識することができない事項が盛り込まれているものである。」(113ページ)と述べた上で、婚約不履行の事件で暴力を振るわれたことが決定的な破綻要因となったと主張する者の陳述書が「その暴力の内容は、男性がマンションの居室の中でテーブルをひっくり返した、テーブルの上に置いてあったCDや雑誌を投げつけられたというもので、自分は翌朝、愛想を尽かしてマンションから出ていきました」という内容であった事例を取り上げ「裁判官は、この陳述書を読んで、Xの体験した出来事は迫真性を伴う形で裏付けられてはいないと感じた。」としています(115ページ)。それは、ひっくり返したというテーブルはどれくらいの大きさか、ひっくり返したときに何が載っていたか、テーブルの上に載っていた物があったとすればその周囲はひどい有様となったはずであるがその惨状はどのようなものであったか、翌朝、ひっくり返したテーブルはどうなったのか、誰かが片付けたのか、CDや雑誌を投げつけられたというがよけることができたのか体に当たったのか、体に当たったとしたら痛かったのか、怪我をしたのか、よけたとしたらそれは壁に当たったのか、床に当たったのか、壁や床に当たったとしたら傷が付いたのかというようなことが書かれていないためで、著者は「以上のような事項が具体的に記載されていない陳述書は作文に等しい。」と断じています(116ページ)。ディテールが重要、陳述書は細部が命なんですが、ただそのディテールを覚えていないと言い、抽象的なことや自分の評価・相手の悪口ばかりたくさん言いたがる当事者が実に多いんですねぇ。これが。
 また、銀行員がハイリスクの金融商品を売りつけた事件で、原告が「担当者は、本件仕組債は『3年の定期預金と同じようなもの』と説明した」と主張していたところ、本人尋問では「担当者から『定期預金と言われた』」と供述した事例を挙げて、「『定期預金と同じようなもの』と『定期預金』とでは、その意味合いは全く異なる。Y銀行の担当者が『定期預金』といったとすれば、それは虚偽であり、詐欺的な欺罔行為である。銀行担当者が、当該金融商品についてこのような虚偽事実を告げる蓋然性は低いといえる。」と述べられ(134ページ)、他の事例を引いたところでは、「一つ嘘をつく当事者は、ほかでも嘘をつく蓋然性が高いとみられる」(197ページ)とされています。前者はやや言葉尻を捉えた感があり、法廷での独特の緊張から言葉が不正確になる当事者は多数見られ、また勢いで言葉が過ぎるケースはよく見られます。それでも、裁判官は、どんな些細なことであれ、嘘をついたという確定的な心証を採ると、その人の主張全体を嘘と見なす傾向があります。この本でも「自分は悪くない、相手方がひどい」ということを強調したいがための過剰な主張がいかに不利を招きかねないか、そういった主張にこだわる依頼者に弁護士がどう対処すべきかについて示唆をしています(232〜233ページ)。
 ここで紹介しなかったことも含めて、弁護士にとっては民事裁判を行う上で非常に参考になる本です。法律実務業界人以外には読み通すことがほぼ不可能な本だとも思いますが。

02.失敗しないとわかっていたら、どんなことをしてみたい? ジョン・C・マクスウェル ダイヤモンド社
 失敗をポジティブに捉え失敗から学ぶべきことを論じる本。
 原書のタイトルは、"Sometimes You Win - Sometimes You Learn" で、本文中では「うまくいく時もあれば、学ぶべき時もあるさ」と訳されています(7ページ)。日本語タイトルの「失敗しないとわかっていたら、どんなことをしてみたい?」は失敗を恐れず成功を思い描いてトライすべきことを示していますが、失敗に学ばずにどんどんトライし続けるのでは同じ失敗をし続けることになりかねず、この本が言っていることと合わないようにも思えます。
 この本は、失敗から学ぶための姿勢/心構えを11の「法則」、謙虚であること、現実を見ること、責任を負うこと、向上心を持つこと、希望を持つこと、学習意欲を持つこと、逆境を恐れないこと、難問を恐れないこと、不快な経験を受け入れること、変化を受け入れること、成熟することとして論じる体裁を採っていますが、著者の話したい/経験したエピソードを適当に分類して貼り合わせた印象です。一つ一つのエピソードには心惹かれるものがありますが、通して読んだときの論理/話の流れはスムーズではなく、整理された感じはしません。
 基本は自己責任(他人のせいにしない)でマイナスに考えずに学習意欲を持ち続けようということに尽きるように思えました。他人を変えようとするのは、無益だ。ほかの人間を変えることはできない。で、自分が成長することだけを考えよう、と。そう割り切った方がいいのかも知れませんが、同時にちょっとどうかなとも思うのですが。
 著者が自分の失敗例として、翌日カナダで講演会をしなければならないのに、パスポートをフロリダの自宅に置き忘れて西海岸のワシントン州でそれに気づいた時のことを挙げています。その時の解決法が、プライベート・ジェットをチャーターしてパスポートを乗せてフロリダからワシントン州まで飛んでもらった、2万ドルかかったというのです(14〜17ページ)。確かに大失敗ではありましょうけど、そういうリカヴァーができるような大金持ちに、ポジティブ・シンキングが大事だと教訓を垂れられても、あまり素直には聞けない感じがします。

01.原発ゼロ 小出裕章 幻冬舎ルネッサンス新書
 福島原発事故の収束ができず汚染水漏洩が続いている現状、放射能汚染の広がり、廃炉と放射性廃棄物処理の困難性などを検討し、原発の再稼働に反対し、原子力を推進してきた者たちの責任を問う本。
 著者の専門領域の放射線測定結果からの論述がやはり説得力があります。三陸産わかめのCs137の測定値及びCs137とK40の比が福島原発事故直後(2011年4月)に急増していることから事故直後から海が遠方まで事故により放出された放射性物質で汚染されていたこと(37〜41ページ)、伊方原発の近くの海で半減期の比較的短いCo60の測定値が原発の放水口近くでだけ検出されていることから原発では事故が起こらなくても放射性物質が放出されていること(42〜48ページ)、そしてその中では飲食が禁止され放射性物質を持ち出さないよう厳重に出入りが管理される「放射線管理区域」の基準が1平方メートルあたり4万ベクレルで、広大な地域がそれ以上に汚染され福島から遠く離れた東京都葛飾区の水元公園でもそのレベルに達しているのに多くの人々がその中で生活している(70〜80ページ)などの話は、改めて考えさせられます。
 「一般の人々は一年間に一ミリシーベルトを超えて被曝してはならないという法律もありました。しかし、政府自身が発表しているように、東北地方だけでなく、関東地方も広大な範囲で深刻な汚染を受けています。その事実を前にして、政府は何をしたか。『これまでは平常時だった。今は緊急事態だから、一年間に一ミリシーベルトを超えて被曝してもいい』と言ったのです。」「これまで日本は法治国家だと自称してきました。国民が法律を破れば国家は処罰します。それなら、法律をつくった国家が法律を守るのは最低限の義務だと私は思います。しかし、日本の政府というのは、守るのが無理だとなると、自分が決めた法律の一切を反古にしてしまうのです。」(73〜75ページ)、(放射線業務で)「給料をもらっている人間でも、妊娠している女性は妊娠期間中に一ミリシーベルトを超えて内部被曝してはいけないし、おなかの表面部分だけしか被曝しない場合でも二ミリシーベルトを超えて被曝してはいけないと定めているのです。年間一ミリシーベルトの被曝を放射線業務従事者の妊婦がしてはいけないのに、被災地に住む一般の妊婦、そして子どもたちはしてもいいなどということが許される道理はありません。それでも、もし二〇ミリシーベルトという年間被曝限度というものを妊婦や子どもたちに許してもいいと思うような政治家や役人、御用学者がいるなら、まず彼らこそがそこに住むべきだと私は思います。」(100〜103ページ)というあたりも、規制の下で放射性物質を扱ってきた研究者の経験と思いが言わせるものだと思います。
 「汚染というものの正体は、もともと東京電力福島第一原子力発電所の中にあった放射性物質で、東京電力のれっきとした所有物なわけですから、東京電力に返すというのが私は正しいだろうと思います。」「殊に東京電力は、福島第一原子力発電所の事故が収束していないというのに、もう福島第二原子力発電所を再稼働させるというようなことを言っているわけです。周辺の何十万、何百万の人たちにこれだけの苦難を押しつけながら、自分だけは無傷でまた原子力発電所を再稼働させるというようなことは、私は正しいこととは思えません。ですから、まずは福島第二原子力発電所を放射能のゴミ棄て場にする。それでも足りなければ、東京電力はもう一か所、柏崎刈羽原子力発電所という膨大な敷地を持っていますので、そこを放射能の次のゴミ棄て場にする。もっと言えば、もし、この放射能のゴミの移送を私にやらせてもらえるのであれば、東京電力本社の会長室、社長室、重役室、役員室から順に、核のゴミで埋めていきますそして、そこで集中的に管理をするというのがよいと思います。それが一番道理にかなったことだと私は思いますし、東京電力に責任をとらせる一つの方法です。」(137〜139ページ)というのは、実にすっきりした意見で、そうして欲しいものです。

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