私の読書日記 2009年3月
21.星のしるし 柴崎友香 文藝春秋
アラサー未婚の中小企業営業職OLの何とはなしの日常をつづった小説。週末同棲状態の彼氏とそこに転がり込んだ居候男、行き来のなかった父方の祖父の死、実家での微妙な位置、母方の祖母の病気などであれこれストーリーを回してはいるのですが、特段の展開を感じない地味〜な読み味。この小説では、占い、お祓い、うさんくさいヒーリングスタジオなどに依存し金を払う女性たちが登場し、「それもええやん」みたいな位置づけで語られているのが、いつものパターンとの違いでしょうか。うさんくささをイメージさせていますが、同時にそういううさんくさい商売をアシストしているような感じもして、ちょっといやな読後感でした。UFOに、突然宇宙人の侵略なんて話も入りますし、ちょっと付き合いきれないなと思います。
20.さえずる舌 明野照葉 光文社文庫
産業カウンセラーとして事務所を経営している38歳女性友部真幌が、雇い入れた元カリスマ店員島岡芽衣の策略でスタッフの疑心暗鬼や取引先の誤解などを受けて事務所経営の危機に陥るという、企業経営者サイドの心理ミステリー。島岡芽衣が美貌に恵まれ人心掌握に長けた魅力あふれる人物でありながら、虚言癖があり底意地が悪く、他人を陥れることを快感とする人物をして描かれ、人を見抜くことの難しさ、人を雇用することの怖さを感じさせます。そう言ってしまうと事業はできないとも思いますが。その危機をカウンセラーのアドヴァイスで対処するという流れですから、カウンセラーの宣伝ぽい感じもしますが、結局その対処方法では乗り切れなかったり、真幌自身、自分の身内のことになるといつも客に言っていることが実行できてないことに気がつくシーンが多々ある(事件の当事者ってそういうものです。経験上)というあたりが、少し深みを持たせているというところでしょう。最後になってようやく、島岡芽衣は本当にエイリアンやモンスターなのかという問いかけが出てきます。こちらをもう少し追求した方がよかったかも知れません。
19.ラヴィン・ザ・キューブ 森深紅 角川春樹事務所
2050年の日本のロボットメーカーで企画された外国メーカーとのアンドロイド共同開発を通じて、生産管理のプロジェクトリーダー水沢依奈が、天才的な能力を持つが気まぐれなオタクエンジニアと交流し共感を深める未来ロボット物SF。読み物としてみたとき、全体としてそこそこの水準ではありますが、前半で用意した材料と期待のタネを後半で展開しきれずどこか不発に終わります。とりわけ、最初の掴みで見せた、能力とガッツのある28歳派遣上がりにしてまるでプロジェクトX世代(って言葉さえ通じない世代が増えてるか)のような水沢依奈のキャラ、この魅力的なキャラが、オタクエンジニアたちを叱咤激励するうちに元気よさがどんどん薄れ、最後はアンドロイドと痴呆症の父親とそしてオタクエンジニアの幼児退行したような姿への母性愛に落とし込まれていきます。はっきり言って、もったいない。元気のいいねえちゃんをまっすぐ突っ走らせても行き詰まると思ったのかも知れませんが、オタク坊やへの母性愛で終わらせるのなら、わざわざこういうキャラを設定しなくても、と思います。バリバリ働ける能力を持っていても、女であれば母性愛に目覚めるのが正しい道と示唆するような、こんな作品を男性作家が書けば、差別的作品と評価されるかオタクの身勝手な妄想と片付けられると思いますが、主人公と同世代女性となると・・・。それに共同開発の相手企業の正体が米軍と来れば、中盤・終盤でアクションか陰謀との闘いを期待しますが、せいぜいがバイクでの追いかけっこで終わります。主人公がエンジニアではなくてプロジェクトマネージャーのため、アンドロイド開発がテーマでありながら、ロボット技術面のディテールはあまり登場しません。まぁその方が、技術用語が飛び交う文章よりよほど読みやすいのですが、開発の技術的な困難がヤマにならずにあっさりスルーされる感じで、そこも不完全燃焼感が残ります。そして、ラストになって、突如観念的な展開になり(唐突に「ラカン:フランスの哲学者」ですって)、水沢依奈がオタクエンジニアへの母性愛に目覚める展開と併せ、オタクっぽいエンディング。それぞれの場面で見ると悪くないんですが、なんかせっかくの材料やアイディアが十分に生かし切れていないような、ちょっと残念感が残る読後感です。この先に期待しましょう。第9回小松左京賞受賞作。受賞時のタイトルは「エスバレー・ポワンソン・プティタ」(ラカンの引用)。このあたりの衒学趣味がエンタメとして突っ走れない要素でしょうか。
18.ペギー・スー 魔法の星の嫌われ王女 セルジュ・ブリュソロ 角川書店
14歳(この巻で15歳になりますが)の普通の少女ペギー・スーがテレパシー能力を持つ青い犬とともに冒険を続けるファンタジーシリーズの10巻。9巻で、第1巻で登場した「妖精」アゼナが実の母と明かされたペギー・スーが、この10巻で突然「故郷」のアンカルタ星に青い犬とともにアゼナに連れられて戻ることになり、ペギー・スーは、実はアンヌ=ソフィー・デ・テールノワールという名前でアンカルタ王国の王女だとされ、宮廷に閉じ込められます。この星では、王族や貴族は「幸福の石」の力で多幸感に浸って無気力に生き、庶民は貴族らの身勝手なふるまいに虐待され続けています。王国を襲う巨大な鬼の存在を知り、宮廷を抜け出して冒険を続けるペギー・スーと、ペギー・スーを助けようとして罠にはまった庶民の少年コラン、その友人アントナン、そして森を支配する妖精と狼男、宮廷を捨てて森に住むペギーの姉らが絡み、ペギー・スーらは誤解され罪人とされながらも王国の危機を救うというお話です。ペギー・スーを救うために勇敢に戦うコランとしたたかに戦うアントナンに好感が持てます。10巻は、アンカルタ王国の危機が救われますが、お尋ね者となったペギー・スーの冒険はまだ続くという形で11巻に続いています。10巻は、ペギー・スーと青い犬だけが地球を離れてアンカルタ星に行くという設定で、9巻までの人間関係をすべてご破算にしています。1巻でアゼナはペギー・スーに「宇宙を守ろうとする人たちがあなたを選び、使命を与えた」「子供を一人選ばなきゃいけなくて、たまたまあなたが選ばれたの」(1巻30〜31頁)と言っていましたが、9巻では「きみの父親は人間だった。きみが赤ん坊のときに、〈見えざる者〉たちに殺されたのだ。〈見えざる者〉たちはきみをも殺そうとした。だから、アゼナは宇宙の果てにある地球という惑星にきみを隠した。」(9巻163頁)とされます。ここですでに若干説明が変わっていますが、ここまではまぁいいでしょう。それが、9巻の次に出た10巻(原書の発売時期で1年9ヵ月開いてはいますが)では、そのはじめで「あなたのお父様は、亡くなったって聞かされていたかと思うけれど、本当は生きています」(10巻5頁)とあっさり方向転換されて、ペギー・スーの父親の国王「ウィリアム3世」が生きて登場します。なぜ殺されずに生き延びられたかとか、あるいはなぜ殺されたことにしておいたのかとかいう説明は一切ありません。10巻は、9巻までの展開・設定を何から何までご破算にして、ペギー・スーと青い犬というキャラのみを残して作り直している感じです。これまでとのつじつまを合わせることを作者自身が放棄しているように見えます。全体として荒唐無稽なお話ではありますが、そういうところはもっとまじめに作って欲しいなと思います。
シリーズ全体として女の子が楽しく読める読書ガイドで紹介
9巻については私の読書日記2008年5月分で紹介
8巻については私の読書日記2007年8月分で紹介
17.不正な処理 吉原清隆 集英社
名古屋近郊の団地に住む母子家庭の出始めの頃のマシンにかじりついたパソコンオタクの少年が、人付き合いを避けながらプログラミングを覚えていき、その中で1人の親友を得たが、父子家庭と思っていたその少年に母がいたことがわかるとそれを裏切りと責めつけていじめ、その少年の自殺を機にパソコンと縁を切り平凡な地方公務員となったが、娘のファイル交換ソフト使用で業務上の情報が流出して窓際に追いやられ、妻にも見限られて故郷に戻り思いをはせるという、中年おじさんのパソコンオタク青春回顧小説。実在の事件を中途半端に絡ませる手法は、目新しくもなく、私は嫌いです。母子家庭の少年が、出始めの当時の価格で20万円もするパソコンを母親にねだり、特段母親の苦労が描かれることなく、マニアックなテクニカルなことに走る描写も、あまりリアリティが感じられず、何不自由なく育った世代の感性かなと思います。最初のエピソードも、こだわりを見せ続けながら最後まで決着も付けられず、ラストも落ちにもなっておらず、最後まで半端な感じでした。第140回(2008年度下半期)芥川賞候補作。これが?
14.15.16.トワイライト7〜9 ステファニー・メイヤー ヴィレッジブックス
超美形の吸血鬼エドワードと明るいマッチョ系狼男ジェイコブに二股を掛け、表向きないしは表層意識ではエドワード一筋と言い続けながら、ジェイコブにも思わせぶりを続け、さらには自分から言い寄る性悪ぶりを遺憾なく発揮するベラが、エドワードからは常に「ベラは悪くない」と言い続けてもらい、エドワードからは無限の愛を語られ続けるという、読んでいて恥ずかしくなるぐらい虫のいい、女性作者・読者の妄想に媚びた感じの恋愛系ファンタジー。しかも、エドワードが結婚を求めるのに対して、それを断るベラの理由が、自分は若くして男に孕まされて結婚してしまうような女じゃないって、世間体だけ。1巻から9巻まで我慢強く読み続けても、どうしてエドワードが(さらに言えばジェイコブも)ベラにこれだけ首っ丈になり、明確に裏切られてもなお、「ベラは悪くない」なのか、全く理解できません。相変わらず、ストーリーは、ベラを狙う吸血鬼による危機と、それを守る吸血鬼一族(それに今回は+人狼一族)というパターンで、これにベラの二股恋愛と引き立て役として存在感を増すジェイコブを語るための人狼一族の伝説にページを割いて、本が作られています。例によって、原作第3巻の“Eclipse”が日本語版では「7.赤い刻印」「8.冷たいキスをあたしに」「9.黄昏は魔物の時間」の3冊に分けられ、7巻巻頭のプロローグが9巻半ばの状況につながっています。プロローグの文章は9巻の文章とは違っていて状況の要約で、あれっプロローグの文章がもっと後にまた出てくるのかな(最後にまた一波乱待っているのかな)と錯覚しますが。
13.時間のない国で2 プーカと最後の大王 ケイト・トンプソン 東京創元社
1巻から時間が経ち、少年だったJJ・リディが父親となり有名な音楽家となってアイルランドの田舎に住みながら世界を駆けめぐり、その子どもたちが、近くの塚の上で塚を守っている幽霊、大王(部族長)を名乗る老人ミッキー、山羊の姿をした怪物(神獣?)プーカらと付き合いながら、妖精とプーカととろりん族(人間のこと)の対立に巻き込まれ、解決していくファンタジー。このお話では、時間のない国や妖精は、1つのキーポイントやエピソードにはなっているものの、メインストーリーにはあまり出て来ず、サイドストーリー的な位置づけです。お話のほとんどは「とろりん族」こと人間の世界で進みます。そして1巻ではあまり前面に出なかった、人間たちの環境破壊などの哲学的社会的な問いかけがテーマとして登場します。主人公と思われたJJが次第に脇役化し、あまり偉くない頼りない弱さのある人間として描かれ(その分憎めないともいえます)、困ったちゃんだったジェニーが精神的な成長を勝ち得ていく変化に読み応えを感じます。重要な役回りをするプーカの正体が、結局何者なのか今ひとつわからず、プーカが妖精の世界(時間のない国)にいきなり手だけ突っ込んで樹を持ってきたり、それ以外のパラレルワールドを自由に行き来できることの説明もありません。登場するのが、怪物も含めて、みんな憎めないので何となくほんわかした気分で読み終われていいのですが。
11.12.時間のない国で 上下 ケイト・トンプソン 東京創元社
アイルランドの村に住む音楽家一家の少年JJ・リディが、リディ家にまつわる過去の謎と人々が時間が足りなくなったという悩みを、環状砦を通じて行き来できる妖精の国に行って妖精の国で見つけた先祖たちとともに解決するというファンタジー。パラレルワールドが目に見えない膜を隔ててつながっていて、やり方を知っていればそれを切り開いて行き来でき、その1つがふさがれていないために、2つの世界の間で何かが漏れ出すという設定は、日本語版では「ライラの冒険」と名付けられているフィリップ・プルマンの“His Dark Materials”を思い起こします。漏れ出すのが物質やエネルギーではなく、「時間」だというのがユニークですけど。そして「時間」が足りなくなって行くという設定は、もちろん、ミヒャエル・エンデの「モモ」を思い起こさせますが、「モモ」のような堅めのテーマではなく、個人的陰謀とその謎解きの軽めのお話になっています。アイルランドの伝統・民族音楽や踊り好きの人々と教会との文化的対立という背景というかテーマは読み取れますが。時間が進行していなかった、従って誰も歳をとらず計画などせずに音楽に興じていればよかった妖精の国というパラレルワールドは、憧れの地なのか、そのあたりは生き方の問題として考えさせられるところです。
10.灰色猫のフィルム 天埜裕文 集英社
母親を刺し殺した青年が、髪を切り落として痣を作り容貌を変えて漫画喫茶や公園を転々とし、ホームレスに拾われて生活するが、拾ってくれたホームレスとも暴力沙汰になって飛び出して行き場がなくなり、通りすがりの人に母親殺害を告白するが相手にされず警察に電話をしているうちに通りすがりの高校生に因縁をつけて殴り合うという、どうにも救いようのない小説。動機も心情も語られず、ただ殺伐とした暴力が繰り返され、人間関係を結べそうでうまく結べない様子が、事実の流れとして綴られています。主人公は将来への洞察力がなく、対人能力にも欠け、何かを努力するということもしない、身勝手で恩知らずな人物と感じられますが、内面がほとんど描かれていないので正確にはわからない、そういう人物設定になります。殺伐とした人間関係と理由なき暴力といったところがテーマなんでしょうか。何十年か前なら、それ自体が文学のテーマとして活きたのでしょうけど、今時は、ワイドショーでもつければありきたりになったエピソードを動機も心情も正面から描くことなく羅列されても、だからどうしたの?と思うだけです。したり顔で動機を解説しないところがいいという評価なのかも知れませんが、こういうのに文学賞が出るって私には理解できませんでした。
08.09.サリー・ロックハートの冒険2 仮面の大富豪 上下 フィリップ・プルマン 東京創元社
1878年のイギリスを舞台に、ケンブリッジ大学を出て財政コンサルタントとして独立開業した22歳の女性サリー・ロックハートが、顧客からの相談で、優良企業を食いつぶして隠れて武器商人として政界に画策する外国人実業家の陰謀に巻き込まれ、戦うというストーリーの小説。サリーは、16歳だった1巻から成長し、当時の女性にはかなり珍しく大学を出て独立開業し、自立心と正義感にあふれ自信に満ちています。サリーだけでなく女性の教師がコツコツと貯めた財産を投資したり、芸人やインチキ霊媒としてしたたかに稼ぐ女性も登場しますし、深窓の令嬢が政略結婚に抵抗して失踪したり、奇術師を恋い慕うお針子が意外な強さを見せたりします。お針子さんの性格設定が今ひとつしっくりこず、ストーリー展開の都合でテキトーに動かしている印象ですが。それと悪役サイドが、残忍なのに、会って話せば正直に何でも話してしまうし、行動にもスキが多すぎて、都合のいい展開と感じるところがあるのが難点です。全体としては娯楽読み物としてはそこそこの線だと思います。1870年代の設定にした理由は今ひとつわかりませんけど。
1巻については2007年7月分で紹介しています。
07.イギリス型〈豊かさ〉の真実 林信吾 講談社現代新書
イギリスの福祉政策、特に医療制度と税負担の問題を、昨今の日本と比較しながら論じた本。消費税率17.5%が課されるがそれを財源に医療費は無料としたイギリスの国家医療保険制度(NHS)が、戦後の混乱を乗り切るための統制経済の下で、戦後初めての総選挙で勝利した労働党政権の下で創設され、国民の強い支持と、上流階層出身者の多い保守党にはノブレス・オブリージュ(富める者は貧しい者に手を差しのべる義務がある)の立場から福祉削減の主張もあまりなく政権交代を経ても維持され続け、新自由主義の権化サッチャーでさえ抜本改革はなし得なかった歴史と定着が説明されています。もちろん、財政難や制度発足時には高度医療が想定されていなかったことなどから、無料で提供できる医療の水準が問題となるなどの制度疲労はあるものの、貧しくても一定水準までの医療を受けられることだけは確保され続け、国民の老後の構想に安心感を与えていることが重要なポイントとされています。かたや、ヨーロッパと異なり食品にまで一律に消費税をかけ、ヨーロッパの基準で評価すればすでに消費税率は実質的に20%を超えているという試算もあり、税収中の消費税の割合がイギリスやスウェーデン以上という高消費税負担国家となっている日本(190〜191頁)では、保険医療も無償ではなく(毎月多額の保険料を払っても3割もの自己負担)、年金生活者からも保険料を徴収し、保険料を払えなければ保険を剥奪するという、一番保険が必要なときにそれを奪う政策が平然と進められています。個人主義の強いイギリス人が無料医療制度のおかげで「働けなくなったり、病気になったりしても、最後は国がなんとかしてくれる」と信頼し(193頁)、お上意識の強い日本人が福祉が信頼できない社会で「自己責任」で放置されるために老後のことで国を信じられない皮肉。「こんな国で年をとりたくない、と思わされる国家など、そもそも価値があるのだろうか。」(187頁)という著者の嘆きが印象的です。
06.サラエボのチェリスト スティーヴン・ギャロウェイ ランダムハウス講談社
セルビア軍に包囲され砲撃と狙撃を受けているサラエボで暮らす4人、砲撃でパンを買うために並んでいた22人の市民が一気に殺された現場で22日間「アルビニーノのアダージョ」を演奏し続けるチェリスト、丘の上の狙撃者に反撃するカウンタースナイパーのアロー、妻子を疎開させ1人残されて妹のうちに世話になりながらパン工場に通う老人ドラガン、家族とアパートの1階の住人のために水くみに通うケナンを追いながら、極限的状況の中で生きる人々の思いと人間の生き様を描いた小説。チェリストについての実際のエピソードから構想されたそうです。登場人物の中で、アローだけが市民を狙撃するセルビア軍に対する積極的な反撃者として行動し、ケナンやドラガンは狙撃を避けながら街を歩き続け、後半でもドラガンは目の前で知人の女性が狙撃されて倒れても助けに向かうこともせず立ちつくし、ケナンは水くみに行ったビール工場が砲撃されてまわりで多数のけが人が出ても救助もせずに水を汲んで帰ります。チェリストの行動は、無意味で無謀なものですが、人々の心をいやし、チェリストを守ろうとスナイパーを警戒し続けるアローはその音楽に憎悪のなかった過去を思い反撃をやめアローが命令に反抗してセルビア人の市民を狙撃しなかったことに腹を立てたサラエボ守備軍の襲撃に命を落とすことになります。他方、ドラガンとケナンは、怪我人を救わなかった自分に嫌悪し、思い直して狙撃された死体を運び、隣人の分の水を取りに戻ります。アローの前半の格好良さと終盤の哀しさ・切なさ、ドラガンとケナンの格好悪さと終盤の着実さといった4人の生き様の交錯と、セルビア軍のみならずサラエボで戦争により権力を増した軍や物資を高く売りつけて稼ぐ者たちの悪辣さをも描くことで、極限的な状況の下での人間性、生き様を考えさせられる作品となっています。
05.女の庭 鹿島田真希 河出書房新社
子どものいない専業主婦が、隣に住む外国人女性への好奇心、優越感/劣等感、同情心、共感に揺れながら、想像/妄想をふくらませていく表題作と、花嫁学校に通う女性が、妹、恋人、母親、講師との間でやりとりしながら妄想/想像をふくらませる「嫁入り前」の2編からなる単行本。いずれも積極的に自己主張しない女性が、日常生活の中で、特段の事件も起こらない大きく展開しない流れの中で、観念的に、しかし登場する観念はどこか具象的日常的な、思索を行く先をずらせながら進め、明確な解答も出ないまま、日常のような、少し超日常のような、少し不思議な感覚を残してそっと終わっていきます。表題作の方では、主人公は、自由にさせてくれる、何をしても受け止めてくれる夫に不満を持ち、他方「嫁入り前」では主人公は、妹や恋人などから何をいわれても納得してしまいます。主人公はどちらも自信なさげでコンプレックスを持ち、観念的な思索を進めながらその行く先は定まらずどこかずれて行くことも合わせて、女性の自由や高い思考力や自己主張を好まぬ人たち向けの作品なのかなと感じてしまいました。第140回(2008年度下半期)芥川賞候補作。これが?
04.殺人鬼フジコの衝動 真梨幸子 徳間書店
浪費家で見栄っ張りな両親の下で虐待され続け、学校でも性的な虐待を受け続けていた少女藤子が、両親と妹を殺されて叔母の元に引き取られるが、成長の過程でばれなければと悪事に手を染め、結局は母親と同様、整形と浪費を繰り返しそのために多数の殺人を繰り返し自らの子どもも虐待するというストーリーの小説。小説そのものは、整形を繰り返して容姿でのし上がり、周囲の空気を読んで行動するだけで確固とした自分を持たない藤子を人形のようだとする比喩を繰り返しつつ、ラストで藤子が本当に人形に過ぎず他の人物の掌で踊らされていたことを暗示してどんでん返しを図っています。しかし、裏でどのような意図が働いていたとしても、藤子自身の行動は、藤子の見栄と妬み、地道な努力を嫌う性格によるものと明確に位置づけられまたそのようにイメージされるように記述され、その歪んだ人格の形成は子ども時代の虐待と母親の性格と行動によるものとされています。冒頭でも「貧乏は、環境や社会や制度が作り出すものじゃない」「要するに、貧乏は、その人の性格が作り出すんだ。」(11頁)と述べているように、作者は貧乏も犯罪も個人の自己責任、あるいはせいぜい親の責任だという確信を持っているようです。確かに劣悪な環境で育っても立派に生きている人もいます。その意味で環境が悪くても自分の意思と関係なく犯罪者となるわけではなく、選択の余地はあります。しかし、劣悪な環境の下で立派に生きることは、そうでない環境の下でよりも多大な努力を要し、強靱な意志か幸運がなければ犯罪や貧困が待ち受けているわけです。それはやはり環境や社会や制度が貧困や犯罪を生んでいる、少なくともその人の人生に大きなリスクなりハンデを与えているのだと思います。この作品が描き出す犯罪者像は、ラストでもう一つの犯罪者像を示しているとはいえ、あまりにわがままで見栄っ張りな性格に重きを置きすぎている感じがします。そして、藤子にしても美波にしても早季子にしても、子どもが受ける虐待ぶりは吐き気がするほど酷い。それにもかかわらず、あまりに可哀想で同情していた藤子がその後あまりにも小狡く非道に身勝手に立ち回るためその同情もすぐに薄れてしまい、虐待への怒りもまたどこかゆきどころがなくなってしまうように思えます。そういうあたりがどうにも居心地の悪い作品でした。
01.02.03.トワイライト4〜6 ステファニー・メイヤー ヴィレッジブックス
2009年2月の最後に紹介したトワイライト1〜3の続編。1巻で相思相愛、それもさして取り柄もない少女ベラが超美形男(ただし吸血鬼)エドワードに君なしでは生きていけないとまで思われているというところまで進めてしまった恋愛小説を、どうやって間をもたせながら続けていくのかという作者の苦しみが見える第2巻です。原作第2巻の“New
Moon”が日本語版ではやはり3冊に分けられて「4.牙は甘くささやく」「5.狼の月」「6.嘆きの堕天使」になっています。で、日本語版1〜3の時と同様、4巻のはじめのプロローグが6巻の半ばにつながっているという相変わらずの読者に不親切な不自然な構成です。ストーリーは、原作1巻でハッピーエンドを迎え相思相愛が確認されたベラとエドワードですが、ベラの18歳の誕生日のパーティーでベラが紙で指を切って血のにおいがしたのを吸血鬼一家の末弟ジャスパーが耐えきれず、ベラを守ろうとしたエドワードと衝突、その後吸血鬼一家はフォークスを去り、抜け殻のようになったベラが嘆き続け、危険が発生するとエドワードの声が頭の中で聞こえることに気付き危険を発生させるために原作第1巻でエドワードの情報を聞き出すために誘惑したキラユーテ族の青年ジェイコブにバイクの修理を頼んでバイクの乗り方を教わるうちにジェイコブに惹かれるが、ジェイコブがその気になると踏み切れずという態度をとり続け、ジェイコブが連絡しなくなると気になり、そのうちにジェイコブは狼男になり吸血鬼一族と対立し、ベラはまたエドワードの声を聞こうと崖から海にジャンプし、ジェイコブに救われながら、そのジャンプを自殺と勘違いした吸血鬼一族が潜伏中のエドワードにベラが自殺したと伝えて希望を失ったエドワードがイタリアで自殺を図ろうとしていると聞くやジェイコブを振り捨ててエドワードの元へ・・・という展開。エドワードは前半中盤不在で読者に飢餓感を与えた上で、終盤にまた登場することで存在感をアピール。それでエドワードが、やっぱりベラなしでは生きていけないとベタ惚れに愛を告白して結局1巻の終わりの状態に戻るというしくみ。冒険物ファンタジーなら英雄が不在が続き復活というパターン(「指輪物語」のガンダルフとか)もありですが、恋愛物でもそういうのありだったか、というアイディアとはいえますが。でも、ここまで来ても、ほとんど取り柄のないベラがなぜ超美形の吸血鬼エドワードにぞっこん惚れ込まれるのか何の説明もなく、さらに原作2巻では狼男青年となったジェイコブにも好かれて奪い合いの展開。ベラにはエドワードの他人の考えを読む超能力だけでなく、より強力な吸血鬼の超能力も通じないということになりましたが、それも説明なし。ベラが危険になると頭の中でエドワードの声がしたことも説明なし(エドワードが伝えていたとすると、ベラが自殺したと誤解したことを説明できなくなるからでしょうけど)。原作3巻か4巻で説明されるのかも知れませんが、原作2巻まで読む限りでは、「ファンタジーなんだからいいじゃないの」みたいな作りの甘さと感じてしまいます。ベラの身勝手さと、それでも訳もなく超美形男に愛を告白されてすべてが許されるという展開も、ベラに感情移入して読める人にはいいのでしょうけど、あんまり納得できない感じがしました。
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