第12章 麻綾の冒険

1.変転の和解

「どういうことです。話が違うじゃないですか」
 玉澤先生が気色ばんだ。病気による遅刻欠勤が多いことを理由に解雇された宮浪さんの賃金仮払い仮処分の第2回審尋で、会社側はやはり復職はさせられないと強硬に主張した。仮処分では、法廷での審理は行われず、書記官室脇の小部屋で「審尋」と呼ばれる期日が開かれる。申立をした側が「債権者」と呼ばれ、申立をされた側は「債務者」と呼ばれる。債権者に債権があるか、つまり申し立てた請求に理由があると認められるかは審尋を経てから判断されるわけで、申立時点で本当に債権があるかどうかは確認されていないのだけど。仮処分の審尋は、ふつうは、弁護士が代理人としてついている限り、弁護士だけが出席する。ただ最近は、同じく「審尋」と呼ばれる期日で進行する労働審判が裁判所のスタンダードになりつつあるためか、労働審判同様に本人も出席させるように指示する裁判官もいると聞く。
 10日前の第1回審尋の席上、会社側の答弁書の内容を見て、裁判官は、会社側がこの程度の主張にとどまるのであれば、解雇無効は明らかでしょうと述べた。会社側の弁護士は不服そうではあったが、債務者は多額の解決金を支払う用意がなく、解雇無効ということであればむしろ復職させる方向で検討すると言った。それを受けて、裁判所は債権者側、つまり私たちに、復職する場合の和解条項案を検討するように指示し、玉澤先生が宮浪さんと協議して作成した和解条項案を会社側の弁護士にFAXしてあった。今日の第2回審尋は、復職条件を詰めることになると予想されたので、こちらは宮浪さん本人を同道した。その宮浪さんの面前で、会社側は前回の態度を覆したのだ。
「債務者側はどうしても復職はさせられない、金銭解決にしか応じないと言っていますが、どうしますか。話し合いは打ち切って決定を出す方向で進めますか?債権者が金銭解決を希望されるのであれば、それなりの金額は説得しますが」
 個別に進行について聞かれた際、裁判官は、会社側の態度に少し気分を害した様子で、宮浪さん側の方針を確認した。私たちは、いったん審尋が行われる部屋を出て廊下で協議した。玉澤先生は、双方の主張立証の状況と裁判官の様子から見て、仮払い仮処分を認める決定が出ることはほぼ確実、その後の本訴でもよほどのことがなければ勝訴だろうと説明した。他方、金銭解決の場合、仮処分段階の和解では賃金6か月分とかせいぜい1年分と考えている裁判官が多いこと、宮浪さんの勤務期間が5か月足らずということも解決金を下げる方向に働き、裁判官がそれなりの金額は説得するといっても賃金1年分くらいがいいところだろうことも付け加え、宮浪さんにどうしたいかを尋ねた。宮浪さんは、会社の態度や体質を見て、復職しても長く勤めていく自信がなくなったといい、裁判で勝てるとしてもこれから1年くらいこの状態が続くのに耐えられそうにない、賃金1年分くらいもらえるなら金銭解決したいと答えた。玉澤先生は、やや意外に思う表情だったが、本当にそれでいいですか、闘えば勝訴できますよと言っても、宮浪さんが同じ答をしたので、わかりましたと言った。
 結局、宮浪さんの事件は、仮処分審尋段階で賃金1年分の解決金での合意退職の和解が成立した。

「意外でしたね。宮浪さんが強く復職を望むということで賃金仮払い仮処分を申し立てたのに、金銭解決なんて」
「仮処分でも途中で金銭解決すること自体は珍しくないけどね」
「玉澤先生は、勝訴確実な事案で依頼者が金銭解決を望むのは不本意なんですね」
「いや、和解するかどうかは、本人が決めることだ。ただ1年かかるのに耐えられないというのはね。依頼者の不安をもう少し拭ってやれなかったかなと思えて」
 少し寂しそうな表情の玉澤先生の心情を切なく思い、私はちょっと胸を熱くしつつ、どう声をかけていいかわからなかった。六条さんなら、どうやって玉澤先生を癒やそうとするのだろう。
 裁判所の裏側の扉を出て見上げると、弁護士会館の上の空は青く、鰯雲が浮かんでいた。
「すみません。私、図書館で調べものをしてから帰ります」
 私は、玉澤先生を先に帰し、エレベーターで弁護士会館の7階に上がり、図書館の開架書庫をあさって読書スペースを確保した。

2.特別なサービス

「みっちゃん、ありがとう。気持ちよかったよ。溜まってたから助かった」
「たまピ~こそ、ありがとう。久しぶりにしてもらって、すごくよかったわ。私にこうしてくれるのはたまピ~だけよ。夫は私が求めてもしてくれないし」
 図書館から事務所に戻った私は、ドアを開けて入るなり凍り付いた。
(私がいない隙に2人で何をしてたの?玉澤先生が落ち込んでいたのを見て六条さんが体で慰めてあげたっていうわけ?それとも六条さんが気まぐれに先月のおっぱいプレスを上回る攻撃を仕掛けて玉澤先生を落としたか・・・六条さんは「家庭を壊すようなことをするつもりはない」って言ってたじゃないの。いや「できちゃう可能性がまったくないわけじゃない」とも言っていた。それで、ついにできちゃったのか。でも秘密にしていれば家庭は壊れないって、そういうことかしら)
 玉澤先生の机がある奥のスペースから、六条さんが、髪ゴムを外して髪を下ろしながら出て来た。頬が上気して、目が少しとろんとして色っぽい。
 私は見てはいけないものを見てしまったと思い、回れ右しようとしたが、遅かった。
「あら、狩野さん、帰ってたの」
「ん?狩野さん?お帰り」
 玉澤先生も奥のスペースから肩を回しながら出て来た。玉澤先生は少し疲れている感じだが、私の憤怒の表情を見て、少し顔をこわばらせた。
「事務所の中で何をやってるんです?」
「身体的接触を伴う特別なサービスよ」
「みっちゃん、その言い方…」
「これは玉澤くんの言葉よ。私を雇うときに、業務内容を説明する際に、さまざまな事務の他に、1つ身体的接触を伴う特別なサービスをお願いしたいって」
「業務内容はきちんと説明しておかないとな。それをお願いしたのは相手がみっちゃんだということへの甘えがあったかとも思うが」
「でも、やってほしかったんでしょ」
「うん」
(何をまたそこで2人でいちゃいちゃした話を)
「で、何、その身体的接触を伴う特別なサービスってって聞いたら、時々肩を揉んでくれって」
(えっ)
「この歳になると、肩がこってねぇ」
「それで玉澤くんがああ今日は肩がこったというときに私が肩を揉んであげるわけ。私も肩こりがあるから、私もお願いって、玉澤くんに肩を揉んでもらうの」
「もう騙されませんよ。だって、さっき玉澤先生、溜まってたから助かったって言ったじゃないですか」
 玉澤先生は、私に睨まれて、きょとんとしている。この表情、私何か勘違いをしてる?
 六条さんは目をすぼめた後、瞳をめぐらせ、はは~んという顔で一笑した。
 私は、顔色を失った。
「私の趣味としては、狩野さんにそう思ったままでいてもらってもいいけど、玉澤くんの名誉のために言ってあげる。さっき玉澤くんは『固まってたから』って言ったのよ。『溜まってたから』じゃなくて。狩野さんの聞き違いよ」
「あぁ、肩がこって、背中まで硬直してる感じだったんだ。六条さんに揉んでもらってよかったよ」
 六条さんはさておき、玉澤先生の表情から見て、嘘はないようだ。私は大きくため息をついた。
「なぁんだ。あぁ、私も肩こっちゃったなぁ」
「狩野さんも肩揉んであげようか、それとも私より玉澤くんに揉んでもらう?」
「もし私がチョイスしてよいのなら、玉澤先生に」
(玉澤先生にしてもらえるのならうれしいし、六条さんに背中を見せたら首の後ろの急所に太い針を刺し込まれるかもしれない)
 私は、玉澤先生に少しすねた目を向けた。玉澤先生は、やって大丈夫か、穂積先生に女性従業員の体に触れるのは御法度だって言われてるんだけどと、ブツブツつぶやきながら私を自席に座らせた。
「従業員が希望してるんだからセクハラじゃないでしょ」
「いや、しかし上司から無言の圧力を受けて迎合しているならやっぱりセクハラだよ」
「私は先生から圧力なんて受けてませんし、もし圧力を受けても迎合しませんよ」
 六条さんが、手にした髪ゴムで私の髪をまとめてくれる。近づくと、今日の六条さんはお香を焚きしめたのか、ほんのり上品な香りがする。私は護摩でも焚いて対抗しようか。
 玉澤先生の両手が私の肩を揉みほぐす。確かに気持ちがいい。私も歳をとったのだろうか。玉澤先生がここも押していいかと遠慮がちに聞いた上で、肩甲骨の凹みを押す。私は、軽く悲鳴を上げる。あぁこの痛気持ちいい感覚は、癖になりそうだ。六条さんが「すごくよかった」というのも、私への当てこすりではなく素直な感想だったんだと思う。
 今日、こういうことがあったおかげで、これから時々はおねだりできるかもと思うと、私は、少し幸せな気分になれた。

3.コードネームはMK

「こちらMAこちらMA、MK、聞こえてますか」
「聞こえてるよ、美咲」
「え~、ちゃんとコードネームで答えてよ」
「誰が聞いてるっていうのよ。それにまんまイニシャルで、どこがコードネームなの?」
「もう少し、気分だそうよ」
「はいはい。MK聞こえてます。MAどうぞ」
「MKに機密文書を送った。確認されたし」
「えっと…メール?この文書は自動的に消滅するとかじゃないよね」
「残念ながら自動的に消滅させるほどのテクニックはない」
「添付ファイルは…なに、この想定問答集って」
「マル対ならどうするっていうのを考えてみたんだけど」
「玉澤先生ならどうするかは、美咲より私の方がわかると思うけど」
「コードネーム」
「ああ…マル対の考えはMAよりもMKの方が理解しているように思えますが」
「そこは、当事者は感情が入ったり気持ちに余裕がなくて正しい判断ができないでしょ。当事者が冷静に客観的に判断できたら、弁護士のニーズが減ってしまうよ。案外第三者の方が岡目八目で、マル対の行動が読めるかも知れないじゃないの」
「で、なんでシェークスピアが出てくるの?」
「インテリおやじはシェークスピアが好きなんだよ」
「次の源氏物語は?」
「だって、天徳の歌合とかがすっと出てくるおやじなんだよ。源氏物語や伊勢物語を武器にしてくるかも」
「武器って、禅問答で勝負するとかじゃないんだけど」
「そもさん!」
「せっぱぁ…じゃないって」
「せっかく一生懸命考えたのに」
「飲みながら考えたんじゃない?」
「MK、今日の通信はここまでにする。健闘を祈る」
 まったく。美咲は、真剣なんだかふざけてるのか。忙しい中、時間をかけて作ったのだから、私のために一生懸命協力してくれてるということなんだろうけど。
 私は、美咲のために中断していた文献調査を再開した。この3週間、いろいろと文献を読みあさったが、今ひとつしっくりこない。玉澤先生ならどうするかを知るには、やはり、玉澤先生自身のデータを見るのが最適だ。しかし、そのために私は禁を犯すべきだろうか。私は、自分の心の中の悪魔の声に次第に魅惑されつつあった。

4.真夜中の侵入者

 土曜日の深夜、私は、事務所の前で、様子を窺った。いつも通っているところなのに、深夜に訪れると、雰囲気がずいぶんと違う。玉澤先生は、事務所に泊まり込みはせず、必ず自宅に帰るから、終電を過ぎた今、事務所にいることはないはず。そもそも警備会社の設置したセキュリティシステムがONになっていたのだから、当然、事務所内には人はいないはずだ。セキュリティシステムをかいくぐれる腕のいい泥棒が忍び込んでいるのでない限りは・・・そんな凄腕の泥棒が狙うような財宝がうちの事務所にあるはずもない。それでも、私は念のため、耳を澄ます。その必要もないのだが無地の黒っぽい服で固めた姿にも表れているように、私は自分の反道徳的な行為に、小さな胸を痛めていた。私自身がセキュリティカードも鍵も持たされている以上、誰もいないときでも事務所に入ることは許されている。だから堂々と入ればいいのに、つい後ろを振り返ってしまう。
 事務所のドアを開け、素早く中に入って、あたりを見回し誰もいないことを確認すると、私はドアを閉めて、内側からドアにもたれかかり、ドアの鍵をかけた。緊張で息が上がり胸が張り裂けそうだ。ドアにもたれたまま、1つ2つ深呼吸をする。さて、目的のブツは確か…
 私の前方に玉澤先生のパソコンが見える。ふと、愛する人のパソコンのパスワードが自分の名前になっていてそれを知って感動するドラマが、私の脳裏をよぎった。玉澤先生のパソコンのパスワードは何だろうか。私は、玉澤先生のパソコンの電源を入れた。
「MAAYAKANO」
 私は、自分の名前を入力して、ドキドキしながらEnterキーをそっと押した。
 パソコンは、無情に、「パスワードが正しくありません」と表示した。
 やっぱりダメか…それを期待するのは、ムシがよすぎる。
 続いて私は別のパスワードを試みた。
「MICHIKOROKUJO」
 もしこれで開いたら、私はパソコンを蹴りつけてしまうかもしれない。玉澤先生の話では、酔った勢いで上司のパソコンを蹴って壊して解雇された労働者は解雇無効となったが、嫉妬で憤激して壊した場合はどうだろう。酔って気が大きくなってというのよりは、しらふで対象への攻撃の意図が明確な分だけ、罪が重そうに思える。その場合、私は解雇されるだろうか。Enterキーを叩く踏ん切りがつかずにいると、突然、目の前の電話が鳴った。
 こんな深夜にいったい誰が電話をかけてくるのだろう。非常識な相談者が土曜の深夜にまでところ構わずかけているのだろうか。こんな電話に出たら、きっとろくでもない相談をふっかけられるに違いない。私が、その電話を無視して、電話の呼び出し音が止まった次の瞬間、私の携帯が鳴った。
 私は、ビックリして跳び上がった。こんな時間帯に私の携帯にかけてくる相手がいるとすれば、酩酊した美咲くらいだが、画面には「非通知」の文字が表示されている。美咲じゃない。ふつうなら非通知の電話には決して出ないが、土曜の深夜に鳴った目の前の事務所の電話に引き続く私の携帯へのコールが偶然とは思いにくい。何者かが、私を見ている。私は、辺りを見回した。しかし、少なくとも事務所内には誰もいないし、窓に張り付いている人物もいない。
 私は、意を決して電話に出た。電話からいきなり響いた声に、私は戦慄した。
「HOLD UP ! 」

第13章 時は巡りてに続く




 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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