第10章 君と歩き続けたい

1.第7回期日

「それでは、本日の弁論準備手続を始めます。本日は基本的に原告の梅野さんのお話を伺う期日ということで、書面の提出はありません。では、早速ですが、原告の梅野さんのお話を伺いたいと思います。すみませんが、被告側は外でお待ちください」
 さて、今日は、梅野さんが初めて裁判官と相対する日だ。はたしてどうなるか。
「梅野さん、初めまして、裁判官の亀菱です。本日は、裁判も終盤を迎えて、話し合いを進めるか人証調べをして判決に進むかという局面にさしかかっていますので、和解の話し合いができるかという点について梅野さんのお話を直接伺いたくて、来ていただきました。労働事件ではだいたい3分の2が1審で和解で終了していまして、和解の話し合いというのは決して珍しいものでもイレギュラーなものでもありません。私たちの感覚でも、判決を得て現実に復職するケースというのは決して多くなくて、相応の解決金をもらって合意退職するという和解がむしろ多数を占めています。それが解雇事件の裁判の実情ですが、梅野さんとしては、どうお考えでしょうか」
 亀菱裁判官は、実質的には金銭解決を勧めながら、一応、梅野さんにはどうしたいかを聞いた。
「私は、復職を希望しています。私は、忍瓜商会で担当していた世の中で見いだされていないいい物を探し出して世間に紹介する仕事が好きなんです。アジアの片隅で埋もれていたいい物を見つけ、それで地元の業者も喜び、日本のメーカーも喜び、日本の消費者も喜ぶ、そういう仕事ができたときの喜びは、何ものにも代えられません」
「そうですか。いいご経験をされたんですね。でもそういういい仕事は、他の商社でもできるのではないですか。どうして被告の忍瓜商会にこだわるのでしょうか」
「別の商社で絶対にできないかはわかりませんが、忍瓜商会は、他の商社が扱わないニッチな分野でいい物を探し出すというポリシーを持っていました。今は総務部が腐っていますし、武納などの変なやつが幅をきかせていますが、もともと忍瓜商会は志のあるいい会社で自由な社風だったんです。私はその忍瓜商会で育てられましたし、忍瓜商会に恩返ししたいし、また忍瓜商会を以前のいい会社に戻したいと思っています」
 梅野さんも、あれから自分で考えたらしい。忍瓜商会への思いがこもった答えが引き出された。いい展開だ。
「忍瓜商会での人間関係が悪くなった末の解雇ですから、復職した場合でも陰に陽に嫌がらせをされることも予想されますし、針のむしろということになるかも知れません。それも覚悟の上ということでしょうか」
「あらゆる人といい関係でいられることは、理想ではありますが、現実には誰かうまくいかない人がいるものです。そこは折り合っていくのが社会人としての心得だと思います」
「でも梅野さんは、武納さんと口論して、社長に武納さんをやめさせるように直訴されたんですよね。そういうことからすると武納さんとうまくやっていくのは難しいんじゃないでしょうか」
「確かに、社長への直訴状は、売り言葉に買い言葉で感情的になってしまいました。武納さんに対しては思うところはいろいろありますが、復職すれば、そこは抑えて対処するつもりです」
「和解であればすぐに終了しますが、判決となると、1審であと半年くらい、さらに控訴審でさらに半年くらいかかります。早く解決して別の会社で再起するという道も十分に考慮に値すると思いますが」
「私としては、もちろん、早く決着したいとは思いますが、意に沿わない不本意な終わり方をするくらいなら、時間がかかっても納得できる解決をしたいと思います」
「あと、現在の証拠を前提とする限りでは、梅野さんにも問題点はあるものの、法的な判断としては解雇無効だと考えています。しかし、今後、特に黄嶺さんの着服に梅野さんが関与していたという証拠が出てきたとか、これから行う尋問の結果によっては、結果が変わる可能性も残されています。そのリスクもご検討の上での判断ということでしょうか」
「黄嶺さんが着服をしていたということはまったく知りませんでした。黄嶺さんの事情を十分に気づけなった、気遣いが足りなかったことは黄嶺さんには悪かったと思っています。しかし、私が着服するように仕向けたり、それを知っていたというようなことは断じてありません。そういう疑いを残さないためにも、私は判決をいただきたいという気持ちです」
「わかりました。原告代理人、原告本人の考えは堅いようですから、最後にもう一度被告に復職和解の可能性を聞きますが、被告が拒否なら、人証調べをして判決という流れでいいですか」
「はい。けっこうです」
 私たちは部屋を出て橋江先生にバトンタッチした。今日は郷音総務部長は来ていない。15分後、亀菱裁判官が廊下に出てきて、被告はやはり復職和解はどうしても受け容れないというので、人証調べをすることになりますと述べ、私たちは亀菱裁判官とともに部屋に戻った。
「それでは、双方次回期日までに人証申請書と陳述書をご準備ください。原告側は原告本人だけと聞いてよろしいでしょうか」
「そうですね。今のところ他の証人申請は予定しておりません」
 通常の労働事件では、労働者側は原告本人尋問のみを請求し証人の請求はしないことが多い。現役の労働者、上司や同僚や部下が会社に反旗を翻して協力してくれることはふつうは期待できないし、退職者も会社側と関係していることも多く、また労働者が連絡できないことも多い。本人に協力する意思があっても、裁判のポイントになる争点に関する事実を直接に知っている人でないと、裁判所は証人採用しない。梅野さんの事件では黄嶺さんはポイントになる争点について知っており本人の意思としては協力もあり得るようだが、まだ現役の従業員の上会社側から協力したら着服について刑事告訴すると脅されている状況では到底証人申請できないし、もうひとつには有利な証言を得られても梅野さんの愛人なので裁判官がどの程度信用してくれるかの問題もある。
「被告側は?」
「ちょっと今まだ決められないのですが」
「どういうことですか」
「本来は郷音部長を申請するべきだったのですが、実は、現在、黄嶺さんの着服に絡んで郷音部長が自宅待機中で、ちょっとそういうアクシデントがあるので、検討中です」
「そうですか。それは仕方ないですね。人数は1人ですか」
「未確定で、1人から3人までの範囲というところです」
「それは困りましたね。3人になっても尋問時間はご調整いただきますので。期日ですが、先に人証調べ期日を仮予約したいと思います。被告側の証人が増えたとしても午後いっぱい取ればよろしいですね」
「はい。その範囲に収めるようにします」
 橋江先生は神妙に答える。
「では4月3日の午後1時30分から午後いっぱい、尋問終了後に再度和解の話もしたいと思いますのでその後夕方も空けておいていただきたいのですが、いかがでしょうか」
「はい、こちらはけっこうです」
「こちらもけっこうです」
「私も大丈夫です」
「では、それを前提に次回期日は3月18日午前11時30分でいかがでしょうか」
「はい、けっこうです」
 双方の予定が合い、次回期日が決まった。
「陳述書は、遅くとも前日には出してください。では、本日の手続はこれで終わります」

2.3月15日

「あ~あ、気が進まなくて先延ばしにしてきたけど、いよいよ今週末は確定申告やらなくちゃなぁ」
 3月13日の金曜日の午後5時、定時に帰る六条さんと私に、玉澤先生は憂いを込めてつぶやいた。
「今年は3月15日が日曜日だから確定申告の期限は16日月曜日って、先生、そう思ってます?」
「えっ、違うのかい。まさか前倒しで今日が期限とか言わないでくれよ」
「先生、本当に知らないんですか?今年は新型コロナウィルス感染拡大防止で、確定申告の期限が1か月延びて4月16日になってるんですよ」
「なんだ。知らなかったよ。あぁ、気が抜けたな。じゃあ、今週末はやらなくていいんだ」
 玉澤先生は、ほっとした顔をした。
(その3月15日は、私の誕生日でもあるんですけど・・・)
 その日が、玉澤先生と会えない日曜日であることを恨めしく思いつつ、そのことに触れてもらえないことを残念に思いつつ、といって、自分から言うのはなんだか祝ってくれと催促するようで気が進まず、もどかしい思いを胸に、私は事務所を出た。


「乾杯」
 美咲が持ってきた冷酒をグラスについで、私たちは乾杯した。週末自粛が言われる中、私たちは食材を買い込んで私の部屋にこもり、2人で祝杯を挙げることにした。
「美咲が、素直に自粛要請に従うなんて思ってもみなかった」
「そうかい。うちの事務所はもうすぐテレワークになりそうだよ。なんせ、顧客の担当者が次々テレワークになって面談禁止だもん」
「そう。うちは玉澤先生が企業の事件は受けないんで個人のお客さんばかりだから、ふつうに面談してるよ。さすがにマスクしてるお客さんが増えたけど」
「玉澤先生は、お上の指示には従わないだろうからね」
「そうね。権力者から言われると反発しちゃうからね」

「ところで、今年は土曜日だけど、ホワイトデーも行事はなしかい」
「玉澤先生は、『虚礼廃止』って言って、私からも六条さんからもバレンタインの贈り物を受け取らないの。虚礼じゃないって言っても、困らせないでくれって。で、その返礼のホワイトデーもなしだよ。私も六条さんも、バレンタインデーとか関係なしに告白してるから、いいけどね。美咲は?引く手あまたじゃないの?」
「お誘いはあったけど、今年は麻綾の誕生日が日曜日で前夜から泊まり込んでお祝いするからって、断ったよ。親友が優先だよ」
「無理しなくていいのに。でも、ありがとう」
「おや、今日はずいぶん素直だね」
「え・・・いつも素直だと思うんだけどな」

 美咲と2人、サラダを作り、肉を焼き、パスタをゆで、たらふく食べた上で杯を重ね、私たちは次第にいい気分になる。
「うう~ん、私、酔っちゃった。うふん・・・」
 美咲が私にしなだれかかる。
「どうしたの、美咲」
「学生時代に玉澤先生のところに押しかけた六条さんって、こんなふうに迫ったのかなって」
「酔い潰れたふりして、スカートまくって布団はだけて下着見せたって」
「19歳の乙女には涙ぐましい努力だね」
「美咲、そこでチノパン脱いでお尻見せないで」
「あれ、麻綾、ときめいちゃった?安心してくれ、これは勝負下着じゃない」
「美咲の裸見たって、感じないよ」
「そりゃそうだ。でもね、見せる方は、今やってみて思ったけど、同性相手に照れ隠ししながらでも、ドキドキしたよ。やっぱり、度胸いると思うな。六条さん、よほど玉澤先生のこと、好きだったんだね」
「それは、わかる・・・」
「私が19歳の処女でそこまでやったとしたら、自分の気持ちだけでいっぱいいっぱいで、玉澤先生の側の事情なんて考える余裕ないと思うよ。やっぱり、なんでここまでやってるのに手を出さないのか、自分に魅力がないのか、それとも男が意気地なしなのかって思っちゃう。私は玉澤先生が悪かったと思うな」
「玉澤先生だって18歳だったのに?それに、六条さんが酔い潰れてると思ってるのに?」
「私だったら、やっちゃうな」
 美咲の言葉を聞いて、私は、これまで自分一人で抱え込んでいた罪の意識を打ち明けたくなった。
「美咲、実は、私、玉澤先生が襲撃されて意識不明のときに、救急隊が来るまで、キスしてたんだ。それも許されるかな」
「麻綾、何言ってんだよ。それ人工呼吸だろ。やらなかったら玉澤先生死んでたじゃん」
「ちがうんだ。私が人工呼吸の前段階で額を押し下げて気道確保したら、自発呼吸が回復したの。だから、人工呼吸しなくてもよかったんだけど、私、したかったから、マウストゥマウスの人工呼吸を続けたの。そうしているうちに玉澤先生が目覚めて目と目が合って、そのままさらにキスを続けて、ぎゅっと抱きしめることができたらいいなって思って続けてた。残念ながら、玉澤先生の意識は回復しなかった。私、玉澤先生の意識不明に乗じて、キスを、唇を味わっていたの・・・準強制わいせつ、だよね」
「そんなの、いいに決まってんじゃん。自発呼吸が復活したってまた止まるかも知れないんだし、それに温泉旅行で麻綾が舐め回しても玉澤先生、寝たふりし続けてたんだろ」
「うん、でもそのとき、キスはしてない」
「どこだか知らないけど、他のところを舐められてるのに寝たふりしてるんだから、キスも覚悟してるだろ、当然」
「そ、そうかな」
「そのときだって、やっちゃえばよかったのに」
「それは・・・でも、美咲にそう言ってもらって、少し気持ちが軽くなったよ。ありがとう」
「麻綾、そんなことで思い悩んでたのか。もっと早く言えばよかったのに」

「さてさて、麻綾、お誕生日おめでとう」
 12時になり、3月15日になったところで、美咲は改めて新しい冷酒の瓶を取り出してグラスに注いだ。
「ついに麻綾も二八のブタになったか」


「ブッ、何、その言い・・・ゴホッ」
 私は口に入れていた冷酒を思わず吹き出し、むせた。
「あぁ、ごめんごめん」
 美咲は、咳き込みが止まらない私の背中をさすった。
「激しい咳、だな。麻綾、体温は測ってるかい?37.5℃あるんじゃないかい。嗅覚にも異常が出てるとか・・・」
「違うでしょう。美咲が笑わせるからむせたんじゃない。ああ苦しい」
 私はヒイヒイ言いながら、上体を起こした。
「もう少し別の言い方はないの?」
「ぴったりだと思ったんだけどなぁ」
「あら、私よりも半年も早く、そのブタになったのはどちらさんでしたっけ」
「あぁ、同い年なんだから、年齢ネタで傷つけあうのはやめよう。体重ネタはもっといやだ」
 私たちは、さらにバカ話を続け、飲んだくれて寝込んだ。美咲は布団に入ると、苦しいといってブラを外し、チノパンをまた下げてお尻を見せ、うふ~ンと私に流し目をし、私は笑い転げたが、そのまま眠り込んでしまい、そのあとの記憶はない。

3.香炉峰

 翌日、昼頃になって、私が目覚めたとき、美咲はまだいびきをかいていた。布団をはだけ下着がむき出しになりシャツもめくれておなかも見えている。この姿は、女性経験に乏しい18歳の青年の恋心を踏みにじるかも。この姿を見られたと知った19歳の乙女は、恋人と会いたくなくなるかも。私は、若きカップルの後朝に思いをはせた。

「玉澤先生の学生時代の下宿は窓から大文字送り火が見えたっていうけど、この部屋の窓からは富士山が見えるね」
 ようやく起き出した美咲が窓の外を見る。
「ふだんは見えないけど、ときどきね。最近はいろいろ自粛で空気がきれいになって見えやすいみたい」
「日高く眠り足りてなお起くるにものうし。香炉峰の雪はすだれをかかげて見る。だね」
 美咲があくびをしながらつぶやいた。
「何それ?枕草子だったっけ」
「白居易。清少納言は、その漢詩を知ってるぞって自慢しただけ」
「美咲、漢詩勉強してるの?」
「古典オヤジ攻略のためにも、麻綾とつきあうためにも、古文と漢文は必須科目だからね」
「春眠暁を覚えずじゃないところに、学を感じるね」
「清少納言と性格似てるって言ってる?」
「そうは言ってないよ。私も、そんな意地悪言うほど性格悪くはないでしょ」
「ひね具合は、どっこいどっこいだろ」
 私たちは顔を見合わせて笑った。
「でも、きれいだね」
 窓を開けてはしゃぐ私たちの視線の先に、雪をかぶった富士山が浮かんでいるように見えた。

4.in my dream

「さぷら~いず!」
 16日月曜日午前10時に出勤した私は、事務所に入るなり、「狩野さん、お誕生日おめでとう」という横断幕と、クラッカーに迎えられた。
 玉澤先生と六条さんが用意してくれたバースデーケーキと紅茶をいただき、ひとしきりお祝いの言葉や写真撮影が済んだあと、私は立ち上がった。
「お祝いありがとうございます。今年は誕生日が日曜日で、事前にお話もなかったので、お祝いはないと、内心いじけていました。今日、お祝いしていただいて、とってもうれしいです。図に乗って、もうひとつプレゼントを所望します」
「何だい」
「玉澤先生とキスしたい」
「え・・・」
 28歳にもなった女がすることとは思えぬド直球の申し出に、玉澤先生の頬がみるみる赤くなった。
「無粋ですけど、『いいよ』って言って欲しいんです」
 困って言葉が出ない玉澤先生に、私は追い打ちをかける。
 六条さんは黙って微笑んでいる。今日は敵意は見られない。きっと、私がこれでうまくいったら、後日自分もと思っているのだろう。
「あ、ああ・・・」
 玉澤先生が戸惑いながらつぶやいた。
「玉澤先生、目をつぶってくれますか。私から行きます」
 玉澤先生が覚悟して目をつぶったのを見て、私は玉澤先生を両腕でしっかりと抱きしめ、玉澤先生の顔をしっかりと見つめながらキスをした。ついに正面からキスをしたという満足感に酔いしれ、もとより数秒で終わらせる気などさらさらない私は、長い間玉澤先生を抱きしめて唇を味わった。
 これが事後承諾として私の行為を正当化できるのかはわからなかったし、美咲に報告したらこれで私も肉食女子に分類されるのかもわからなかったが、私は、達成感と幸福感に満たされた。一度こうしてみたかった。この瞬間をどれだけ待ち望んできたことか。私は夢のように幸せ。このあとは何度でもできるのかどうかもわからなかったが、私は玉澤先生の背中にナイフで刺された傷口がぱっくり開いて流血したりはしていないことを、背中に回した両手でまさぐって確かめた。

第11章 計画 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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