第7章 金曜日の決闘

1.金曜日の決闘

(何だ、この2人は。ピーターラビットか?)
 目を開いた私の前で、六条さんは自分の額を玉澤先生の額にこすりつけていた。最近見た映画版のピーターラビットで、ビアとピーターラビットが、あるいはウサギ同士がしていたように。あの映画では、ウサギが額をつけ合うのは謝罪の気持ちだと言っていたか…
「玉澤くん、やっぱり熱がある。先週も先々週も土日休んでないでしょ。今日で19日連続勤務じゃない。今日はもう帰って、今週末の土日は久しぶりに休みなさい」
「大丈夫だよ」
「今回は、週明けが期限の書面、ないでしょ。今週の週末休まなかったら、いったい何日連続勤務になるの。ちゃんと休むんじゃなかったら、医者に行って」
「みっちゃんにはかなわないなぁ」
 言われてみると、今日の玉澤先生は、いつになく目つきに力がない感じがする。でも…それで熱があるとか、今日で19連勤とか、六条さんはどうしてそんなことがわかるの?

「六条さんは、玉澤先生のこと、好きなんですか?」
 六条さんのいうことを聞いて、わりと素直に帰宅した玉澤先生を見送り、自席に戻ろうとする六条さんに、私は、思い切ってここ数か月聞きたかった質問をした。立ち止まった六条さんは右手を頬に当て、瞳をめぐらせた。私の投げた直球が、ピッチャーライナーで返ってくるか、それとも嵐の千本ノックが来るのか、思わず身構えた。
「嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃないっていうのは、憎からず思っているということですか」
 六条さんが私を直視した。石にされるかもと、私は一瞬ひるんだ。
「今日は白黒付けるまで逃がさないって、雰囲気ね」
「ごめんなさい。でも、私、ずっとモヤモヤしてて」
「玉澤くんの体の心配をしてるのは、従業員としてふつうの感覚だと思う。玉澤くんが倒れたら、この事務所は直ちにやっていけなくなるんじゃない。今玉澤くんが2週間とか、悪くして2か月とか寝込んだら、狩野さん対応できる?」
「できません!」
「健康面で心配なのは、フィジカルだけじゃない。玉澤くんは睡眠不足に弱いから、睡眠時間はそれなりに取ってるとは思うけど、休まないとメンタル面で厳しくなるし、弁護士ってそもそもストレスがかかる仕事じゃない。そこに気を遣ってあげる必要があると思うし、気持ちが和らぐようにしてあげたいと思う。彼は言うまいとしてるけど、やっぱり彼の心は癒やしを求めてると思うの」
「六条さんは、ある意味で玉澤先生のサポートのためというかメンタルケアのために、玉澤先生を気遣ったりいちゃついたりしてるんですか」
「いちゃついてるっていうのは、狩野さんの嫉妬心がそう見せてるんだと思う。もっとも、私も、狩野さんがヤキモチ焼いて焦れるのを楽しんでいじってるところもあるけど」
「やっぱり。弄んでいたんですね」
「だって、狩野さん、ホントに全部顔に出るから面白いんだもの」
「ひどい」
「フフフッ。で、狩野さんが聞きたいところに戻ると、玉澤くんが仕事をしやすい気持ちとか環境を作るのに癒してあげるというとき、ウキウキしたり少しはときめいたりということもあった方がいいでしょ。人間の気持ちとして。軽い疑似恋愛的な要素もあった方がいい気持ちになって仕事の意欲も上がるでしょ。少なくとも、玉澤くんはそういうタイプだと思う。で、私がそれを仕事として、玉澤くんの稼ぎをよくするためということだけでしているか、疑似恋愛的な要素は演技と割り切ってできるか、そうしているか。狩野さんはそこを聞きたいんだと思うんだけど、そこ、よくわからないの。自分で。そういうことって突き詰めて考えたことないし、突き詰めない方がいいんじゃないかって。私の日々の張りあいって面でも、仕事です、演技ですっていうよりも、できちゃう可能性がまったくないわけじゃないって思っている方が、ときめきが持てて楽しいじゃない」
「できちゃうって…」
「そうしようって思ってるわけじゃないよ。う~ん、そこも突き詰めたくはないんだけど、実際にできちゃうよりも、できちゃうかもって考えていることの方が楽しいと思わない?」
「それは…」
「狩野さん、もし、玉澤くんから不倫しようって迫られたらどう思う?」
「エッ、エッ、エェ~…そうですね。私の妄想の中でもそれは考えてなかったんですけど、たぶん、幻滅すると思います」
「そうでしょ。あなたはたぶん、憧れのヒーロー像を2次元のキャラじゃなくて、3次元の玉澤くんに投影してるんだと思うの。イケメンにすり寄るんじゃなくて、外見に囚われずに、弱い者いじめをする連中と闘って勝ち抜く玉澤くんの生き様に憧れてるってところ、狩野さんっていいなぁと、私は微笑ましく見守ってるのよ」
「散々いじりながら、そういいますか」
「エヘヘ。でも、そうだから、女性関係でいえば、妻に誠実な玉澤くん像が、狩野さんには好ましい。狩野さんは、玉澤くんが奥さんとデートしてもいちゃついてもエッチしても、それは気にならないでしょ」
「エッチしてるところを想像したことはありませんが…」
(六条さんとエッチしているところは、おかげさまで何度も想像してしまいましたが・・・)
「で、妻じゃない私といちゃつくのは、許しがたい。そこに嫉妬しつつ、でももしそれが狩野さん自身であっても、玉澤くんが妻じゃない女性に色目を使うのは、あなたが憧れる玉澤くん像からは外れてしまう」
「そこは、葛藤がありますね。でも、そういうふうにきちんと分析されてしまうと、ちょっと醒めますね」
「人間の気持ちってそういうものよ。突き詰めて考えない方がいいと思わない?」
 六条さんは両手を組んだ上に顎を乗せ、ニッコリ笑った。私も、確かに、自分の気持ちを第三者的に突きつけられたくはなかったけれど、また六条さんができちゃう可能性を全否定はしなかったことに結局モヤモヤ感は残ったものの、この日、六条さんと同志になれた気がした。いつか、玉澤先生抜きで、2人で飲もう。

2.爽やかな月曜日

「玉澤くん、お医者さんに行った?」
「いや」
「一度きちんと診てもらいなさいよ」
「医者になんて行ったら、何言われるかわからないっていうか、なんやかやと病気にされちゃいそうで、怖い」
「たまぴ~は、子どもの頃から注射嫌いだったしね」
「うん、仮病じゃなくて、予防接種の日になるとちゃんと熱が出た」
 月曜の朝、出勤してきた玉澤先生に、六条さんは、ひとしきり文句を言ったが、玉澤先生はけろりとしている。よく寝たぞって顔で顔色はいい。
「まぁ、いいか。たまピ~、先週末は、私のいうことを聞いて、ちゃんとお休みしたわね」
 六条さんは、気を取り直して、上機嫌で言った。
「あぁ、みっちゃんからああまで言われて土日に仕事するわけにも行くまい。久しぶりに仕事のこと忘れてゆったりしたよ」

「そうそう。たまピ~、蔵本さんから宅配便でお菓子が送られてきたよ」
「あぁ、毎度毎度ありがたいことだ。1度か2度相談を受けただけなんだけど、その後ずっと定期的にお菓子を送ってくれている。義理堅い人なんだなぁ」
「私は、社会人経験がないのでイメージできなかったんですけど、法律事務所には本当にいろいろなタイプのお客さんが来ますよね」
 玉澤先生が2人の世界に浸り切らないよう、私も会話に割り込んだ。
「私も、弁護士以外の社会人経験はないけどね。事件が終わっても毎年お中元やお歳暮を贈ってくれる人もいるし、全然法律相談もないのに個人で顧問契約をして顧問料を払ってくれている人もいる。毎年のように無事復職できてよかったと年賀状を送ってくる人もいる。いろんな人に支えられてやってるんだなぁとしみじみ思うよ」

ピンポ~ン♪
「は~い。いらっしゃませ」
「1時に予約している富成です」
「こちらにどうぞ。あ、ご丁寧にありがとうございます。玉澤が喜びます。どうぞ、こちらで掛けてお待ちください」
 相談室から六条さんが紙の手提げ袋を持って玉澤先生に近寄る。
「玉澤先生、富成さんが、お土産にって、リーフパイよ」
 玉澤先生は、心なしかいつもよりうれしそうな顔で手提げ袋を受け取り、自席に置いて、相談室に入った。

3.経費水増し請求の憂鬱

「出張旅費の水増し請求ですか。会社側が指摘しているとおりに水増し請求したんですか」
 富成さんの解雇理由説明書をみながら、玉澤先生が確認している。富成さんは、長年にわたり出張旅費を水増し請求し続けて、200万円あまりの不正な利益を得たとして懲戒解雇された。
「水増し請求はその通りなんですが、本当の解雇理由はそこじゃないんです。人事異動で新たに来た上司が無茶なノルマを出すので、無理だって言ったんですよ。そうするとあいつは生意気だっていろいろ嫌がらせをされるようになって、挙げ句の果てに過去の経費請求をチェックし直して水増しだっていうことになったんです」
「経緯はそうだとしても、水増し請求自体がその通りだと厳しいですよ。どうして水増し請求したんですか」
「会社の経費の認定がうるさくて、旅費は出してくれるんですけど、お客さんへの手土産とか接待費をほとんど認めてくれないんです。接待にお金をかけないと実績を上げられないのに、領収書出してもはねられ続けて、自腹になって、そのままじゃ払えなくなって、新幹線で行くところを夜行バスで行って新幹線代を請求したりしてなんとか持たせていたんです。会社でもその辺の実情はわかってあうんの呼吸でやってたはずなんですけど、今になって、会社は規定通りやってる、規定に反したのはおまえだって」
「この経費の水増し請求は、架空の出張はなくて、すべて現実に行ったんですね」
「当然ですよ。行ってもいない出張を経理部が通すはずがない」
「それで、水増し請求で浮かせた金額と自腹を切った経費はどちらが多いんですか」
「もちろん、自腹の経費の方が多いですよ」
「その自腹の経費の領収証とか、きちんと残していますか」
「古いのがどれくらい残っているか、今断言はできませんが、たぶんあると思います」
「領収証を時期毎に整理してそれぞれ何に使ったかをとりまとめて検討してみる必要がありますね」
 玉澤先生は、富成さんに領収証の整理にどれくらいかかるかを聞いて、次のアポを入れた。

「先生、お金の絡んだ不正は裁判官、すごく厳しいですよね」
「そうだね。現金をそのままポケットに入れた横領だと1万円とか、下手をしたら数千円でも懲戒解雇を有効としたものがあるくらいだ」
「接待費や手土産代の経費を自腹で負担させられたといっても、だから別口の経費の旅費で水増ししてもいいということにはならないんじゃないですか」
「私は、労働者に経費を自腹で負担させる会社は十分、悪徳企業で、労働者がそれをカバーするために水増し請求しても労働者を非難できないと思うけどね。まぁ、裁判官はそこまでは言ってくれないだろうけど、解雇事件は、白黒で言えば、白じゃなくていい、グレーで勝てるというしくみだからね。経費として収支が合えば、その範囲は解雇理由から外してくれるんじゃないかな」
「それを正面から認めた裁判例、ありますか」
「なかなかないね。NTT東日本(出張旅費不正請求)事件の東京地裁判決では交際費として立て替えた分を差し引いて認定しているけど、その事件では使用者が最初からその差額分だけで懲戒処分をしていて、使用者が争っているのに裁判所が認めたというわけじゃない。ただ、私の経験では、立証できる限りは、裁判官は現実に自腹を切った範囲は除こうとすることが多いよ」

4.提出期限の効力

「明日弁論準備期日の剛田さんの事件。会社側の準備書面、まだ来ませんね。あれ、提出期限、先週の火曜日でしたよね」
 富成さんの相談が終わり、私は、明日の予定を見て、思い出した。
「そうだね。まぁ、答えられなくて、苦しんでるんじゃないの?」
「私、弁護士になってみて、提出期限を守らない弁護士がこんなにいるの、初めて知りました」
「私の経験上は、裁判所が決めた提出期限を守って書面を出してくる弁護士は、半分くらいだね」
「世間の常識からはかけ離れてますよね」
「労働審判では、労働審判員は企業の人なんで、会社側が答弁書の提出期限を守らないことに憤激するって話をときどき聞くね。でも会社側の弁護士は蛙の面にしょんべんって感じだよ。前に、労働者が納期の当日に完成できていないのに残業拒否して帰ったことを非難して、納期を守るのは社会人の常識だ、それを守ろうという意識もないやつは社会人としても組織人としても失格で、その一事をもってしても解雇は社会的に見て相当だということを強調した準備書面を、自分は提出期限に遅れて、出してきた会社側の弁護士がいて、呆れたことがある。私だったら、仮にふだん提出期限を守らなくても、そういう内容の準備書面は何が何でも提出期限内に出すけどね」
「玉澤先生は、自分はかなりきちんと提出期限を守るのに、相手の弁護士が守らなくてもあまり怒りませんね。キレたくなりませんか」
「私だって、絶対に守れるとまではいえないからね。あんまり大きなこと言って、自分が守れなかったとき、ばつが悪いしね」

5.パイはお持ち帰り

「さあ、さあ、おやつにしましょう」
 六条さんが紅茶を淹れている。
「たまピ~は、イチゴのミルフィーユにしたよ」
「ありがと」
「今日は、富成さんが持ってきたリーフパイじゃないんですか」
 六条さんが玉澤先生の顔をチラ見した。
「狩野さんは、リーフパイの方がいい?チェリータルトよりも」
「あっ、そっちの方がいいです。ただ、いただき物があるときはそちら優先じゃなかったかなと思って」
「リーフパイは、娘さんの大好物なんで、たまピ~はうちに持って帰りたいだろうと思って」
 玉澤先生は、うれしそうな顔で頷いている。
 う~ん、築きあげられたこの堅い信頼関係に、割り込む隙はないのか。いや、思い立ったが吉日、始めるのに遅すぎることはない。
「娘さんの好物って、他に何があるんですか」
「そうだね。ラスクとか、チーズケーキとか。クッキーはおしなべて好きだな。レーズンが入ってるのは苦手だけど。チョコも好きだけどビターは無理みたい」
「洋菓子系ですね」
「うん、あんこ系は苦手みたい」
 遅れてリサーチを開始した私を、六条さんは余裕の態度で見ている。
 しかし、見ておれ、明日は私にプランがある。六条さんの余裕の微笑みを、私はニヤけつつ見返した。

第8章 真昼のデートに続く




 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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