第9章 苦境

1.週明け

 週が明けて、3月25日の朝、私は、午前10時からの夏井さんの解雇事件の弁論準備期日に備えて、朝9時前に出勤した。事務所に入ると、ちょうど、FAXの作動音がしていた。夏井さんの事件の相手方の蟻蔵先生からの受領書だ。民事裁判で提出する書面は、現在は、FAXでの提出が主流になっている。書面や書証をFAXで提出するときには『送信状』を1枚付け、その下側が『受領書』になっていて、そこに署名して送り返すのが慣例になっている。
 この送信状は…夏井さんの事件で、玉澤先生が3月22日に準備書面と証拠説明書と甲第25号証を送っている。えっ、私は聞いていない。何を送ったんだろう。
 私は、慌てて、夏井さんの事件の記録を引っ張り出す。クリアファイルの中を探し…あった。ええと、何だ…甲第25号証は、夏井さんの上司から夏井さんへの電子メールだ。上司が、大阪営業所で納品指示に当たって型番一覧表での事前確認を怠って、ミスがあり、問題になった、夏井さんはこれまでそういうミスをしていないが、大阪営業所でのケースを教訓に、ミスをしないよう気をつけようという内容。しかも送信時期は、夏井さんの解雇の6か月前の一昨年12月20日。熱三電機が出してきた夏井さんが納品指示のミスをしたことを上司が注意しているメールより後じゃないか。夏井さんの言うとおり、夏井さんは納品指示のミスをしていなかった。そして熱三電機が出してきた乙第30号証から32号証の電子メールも、前回提出された乙第38号証の電子メールも全部偽造ってことじゃないか。これは大ヒットだ。
 私は、胸をドキドキさせながら、でも玉澤先生が、夏井さんの事件をともに担当している私に、こんな大事なメールの存在を知らせてくれなかったことに、疑問を持つ。夏井さんの事件では、これまで、私たちの打ち合わせたことが熱三電機側に筒抜けになっているような気がしていた。そのことで、玉澤先生は、私を疑っているのだろうか…
「おはようございます」
 午前9時少し前に、六条さんが出勤して、私に声をかける。六条さんは、30歳以上も年下の私に対しても、きちんと挨拶をする。やはり育ちの良さを感じさせる。
「あっ、おはようございます」
 私は、感じた胸の痛みに気づかれないよう、顔を上げて笑みを作った。
 六条さんは、レモン色のシャツの上にオレンジのカーディガンを羽織り、胸には2羽の絡みあって飛ぶ鳥のブローチをしている。今日も暖色系のコーディネートだ。やはり決意して明るい装いをしているのだろう。先日よりもさらに火は燃えさかり、胸の鳥は不死鳥をイメージしたものかも知れない。

「はい、お茶。ちょっとミルクを濃いめにしてみたの。出かける前に体を温めた方がいいと思って」
「あ、ありがとうございます」
 玉澤先生が金曜日に書いてFAXで提出していた準備書面を確認していた私の前に、六条さんが、ミルクで淹れたチャイティを置く。少し気持ちが和らぐ。六条さんには、こういう心の襞まで分け入って癒やしてくれる優しさがある。それは、険悪になったときは、一番痛いところを狙い澄ましてジョリジョリと傷に塩をすり込まれ、ぐいぐいと揉みしだかれ、ぐりぐりと抉られて、いたぶられるということでもあるのだけど。
 さあ、これからしばらくは、私が、事件の期日をしのいでいかねばならない。ほとんどの事件は、玉澤先生の負傷を理由に、実質的には延期していくだけだろうけど。
 六条さんが淹れてくれたチャイティを飲み終えた私は、立ち上がり、裁判所に行く準備を整えた。まずは、夏井さんの解雇事件だ。玉澤先生が提出した電子メールを思い出し、高揚感とわだかまりを抱えつつ、私は東京地裁に向かった。

2.夏井-4

「おはようございます」
 東京地裁13階南側の労働部の小部屋に、裁判官が入ってきた。
 部屋で待っていた私と、熱三電機の代理人の蟻蔵先生、熱三電機の総務課長の海山さんが、やはりおはようございますと裁判官に挨拶を返す。
「本日の審理を始める前に、原告代理人、玉澤先生のご容態は…」
「現在も昏睡状態です。金曜日の夜から一度も意識を回復していません」
 私は、冷厳な事実を想起し、自分に『泣くな!』と言い聞かせたが、右目の縁から一筋涙が頬を伝った。
「そうですか…たいへん残念です。さて、事前に提出されたものの確認ですが、原告から準備書面(3)と甲第25号証の電子メールが提出されています。被告提出の乙第30号証から乙第32号証及び乙第38号証の電子メールよりも後の日付で原告にはそれまで納品ミスがなかったことが明記されているのであるから、これらの電子メールは事実に反するものであり、偽造だというご主張ですね」
「被告側では、本日反証をお持ちしました」
 裁判官の整理に私が反応するよりも早く、蟻蔵先生が鞄から書類を出した。
「甲第25号証の電子メールの送信日とされている前後の時期の、メール送信者の上司の送信済みフォルダと原告の受信フォルダのスクリーンショットです。これを乙第42号証の1,2として提出します。いずれにも、甲第25号証の電子メールはありません。つまり甲第25号証の電子メールを送信者とされている上司は送信しておらず、原告も受信しておりません。甲第25号証の電子メールは偽造されたものです」
「原告代理人、これに対して何か反論はありますか」
「申し訳ありません。実は、甲第25号証とそれに基づく今回の準備書面は、私が3月22日に事務所を出た後に玉澤先生が作成して提出したもので、私はそれについて玉澤先生と打ち合わせをする機会がなく、経緯がわかりません」
「こちらの提出した電子メールを偽造だと言いがかりを付けた上に、裁判所からも追及されて追い込まれると、今度は偽造した電子メールを提出してきた。ここまで来ると、許しがたいことですな。犯罪ですよ、これは」
「玉澤先生は、常日頃フェアネスにこだわっています。フェアプレイに徹しています。玉澤先生が偽造なんてするはずがありません!」
 言い始めて、私は悔しくなり、声を荒げ、ボロボロと涙をこぼした。
「おやおや、自分は知らないと逃げを打った挙げ句に泣き落としですか。どうしてやってないと言い切れるんですか。あなたは今わからないと言ったんでしょ」
 蟻蔵先生が、感情的になった私を見下したように吐き捨てた。本当に嫌なヤツだ。
「まぁ、とにかく狩野先生は事情がわからないということですので、原告側の説明は次回に聞くことにしましょう。裁判所としては、ご主張の内容が内容ですから早期に事実関係を確認したいところではありますが、玉澤先生が意識不明という状態ではどうしようもありません。期日は少し先に入れざるを得ないですね」
 裁判官が取りなしたが、決してこちらに好意的な様子ではない。
「申し訳ありませんが、そのようにお願いします」
「裁判所としても、玉澤先生には早くご回復いただきたいところですが、狩野先生、仮に次回までに玉澤先生が回復されない場合でも、次回までには事情を調査いただいて回答してくださいね」
「はい」
 次回期日は、ほぼ2か月先の5月末に指定された。絶対にあって欲しくないが、もし5月末までに玉澤先生の意識が戻らなかったら、この絶体絶命とも言える状況を私が独力で切り抜けなければならない。いったいどうすればいいのか。玉澤先生はどうするつもりだったのだろう。熱三電機が上司の送信済みフォルダと夏井さんの受信フォルダのスクリーンショットを提出してくることを想定しなかったのだろうか。
 玉澤先生とともに1年3か月あまり事件をこなしてきて、私はそれなりには実力を付けてきたはずなのに。玉澤先生がいない私は、なんと無力なのだろう。打ちひしがれて震える私は、白馬の王子様を待ち望む少女よりも弱々しい、大黒様の救いの手を待つ因幡の白ウサギのようだった。そこまで想像して、私は、福々しい大黒様のイメージにようやく和んだ。玉澤先生は大黒様のようにまるまるとしてはいないのだけど。
 自分の弱さに目を背けてはいけないが、それに甘んじてはいけない。そう、私はいつまでも助けを待つ身ではいられない。

3.茅豆-2

 夏井さん事件の弁論準備期日が終わった後、弁護士会館の控え室でお茶を飲みながら、気持ちを静め、次の弁論準備期日の時間を待っていた私に、六条さんからメールが入った。今ほど、25分後に弁論準備期日が始まる房緑建設の事件で高森先生から準備書面がFAX送信されてきたのだという。高森先生は、これまでも書面の提出期限など守ろうという考えは頭の片隅にもない態度をとってきた。しかし、それにしても、期日に出席する以上すでに私が事務所にいることがあり得ない時間に送ってくるのは、どういうことだろう。裁判官はギリギリ読めるが私には読ませないという状態で期日に入ろうという魂胆か。どこまでも卑劣なヤツだ。

「原告代理人、玉澤先生のご容態は?」
 茅豆さんの事件の弁論準備期日が始まり、裁判官が私に質問した。
「まだ意識不明の状態が続いています」
 私は、期日が始まる前から高森先生を睨み付けていたこともあり、かろうじて涙をこぼすことなくこの言葉を言うことができた。
 裁判官が気遣わしい表情をし、私の向かいの高森先生は、一瞬露骨にうれしそうな表情を見せ、慌ててしかめ面しく装った。
「そうですか。それでは期日を始めます。期日外で原告申立の文書提出命令を採用しましたが、被告はそれでも帳簿類を提出しないということですね」
 裁判官が前回期日の後で決定した文書提出命令の処理をする。
「提出できる書類はありません」
 高森先生が、浮かない顔で応答する。
「それでは、原告が取られたペナルティの時期と額については、原告の主張通りにみなす方向になりますので、双方ともその前提でお考えください。それで、被告から原告の労働者性についての準備書面が提出されましたが」
「たった今いただいたところですので、今目を通しているところです」
 私は、労働部で受け取った、高森先生が25分前にFAXしたという準備書面のクリーンコピーを見ながら、皮肉交じりに答えた。
「朝礼への出席が要求されていて遅刻すると1週間の掃除当番が課せられていたことは認めるのですね。業務委託ということにはふさわしくないように思えますが。原告の主張内容は概ね認めつつ、いずれも強制されていたわけではない、原告が任意でしていたことだというご主張ですか。まぁ、そのあたりは人証調べでお話を聞いて判断することになりますか」
 裁判官が準備書面の内容を確認する。
「遅刻して坊主刈りにしたのも原告が喜んで自主的に行ったというご主張ですか」
 私がとげとげしく指摘しても、高森先生はヘラヘラして答えもしない。私の追及では動じないということか。
「ペナルティを取った法的な根拠は、『原告が強く希望し原告が同意したから』ですか。これは一応原告側で認否反論してもらいましょうか。その上で、次回は人証申請ということにして、人証予定者の陳述書もご準備いただけますか」
「はい」
 私は、玉澤先生がいないことで不安に思いつつも、高森先生に弱みを見せまいと、裁判官の要請に力強く答えた。
「陳述書の準備もありますので、提出は1月半後、期日は2か月後くらいでしょうかね」
 裁判官の示唆で結局準備書面と陳述書の提出も5月半ばと指定され、私はホッとする。

 玉澤先生がいない状態で、労働事件の弁論準備期日を2件こなしただけで、私はヘトヘトになった。玉澤先生の容態を裁判官が気にかけてくれていて、最終的にはたいていのことを先送りにしてくれるのだが、へまをすることができない強い緊張感の中、対立関係の厳しい事件では、期日を乗り切るだけでこんなにたいへんなのか。私は、この状態で何日もつだろう。
 事務所のデスクに突っ伏してへたばっていたら、六条さんがミルクが多めのミルクティーを淹れ、玉澤先生の大好物のバウムクーヘンを出してくれた。白砂糖のアイシングで外側を厚くコーティングされた昔ながらのタイプ。いつもの私向けの甘さ抑えめのフルーツ系ではない。疲れているから甘めのものをという配慮なのか、玉澤先生を思い起こしてということなのかはわからなかったけれど。あぁ…玉澤先生に、このバウムクーヘンを食べさせてあげたい。一緒に分けて食べたい。しかし私の思いは昏睡状態の玉澤先生には届かない。残念ながら、玉澤先生と私のホットラインは、今はつながっていない。

 夕方になり、私は、素太刑事が待つ新宿警察署に向かった。事務所から新宿署までは歩いて15分ほどだが、その道のりはずいぶんと長く思えた。弁護人として仕事で通う警察署と、事件の当事者として向かう警察署は、まるで違うところのように感じられた。

第10章 取調1 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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