第3章 乱されてユラユラ

1.期日指定

 翌週の火曜日、東京地裁労働部の書記官から電話が来て、梅野さんの事件の第1回口頭弁論期日が決まった。期日は、担当裁判官の開廷日で裁判所が可能な日時のうち、原告代理人が出席可能な日が指定される。FAXで裁判所が可能な日時が示されて、そのうち都合の悪いものだけ×をして送り返すように指示されることもあるし、電話で直接この日はどうかと順次聞かれることもある。担当裁判官は、担当部からの連絡が来て初めてわかる。梅野さんの事件は「る係」で金曜開廷ということで、第1回口頭弁論期日は7月19日午前10時と指定された。
 訴状に問題があるときは、東京地裁労働部の場合は、ありがちな問題点を予め書き出した「補正依頼書」が用意されていて、該当項目にチェックしたFAXが送られてくる運用だ。玉澤先生は、そして私も(コホン。咳を1つ)、そういうありがちなミスはしないから、受け取ったことはないので、聞いた話だが。
 る係の亀菱(かめびし)裁判官は、企業秩序の維持を尊重するタイプで、労働者の上司の指示に対する反抗については、あまり大目に見てくれない傾向にある。梅野さんの事件では、あまり当たりたくない裁判官だ。
「ええっ、亀菱さんか。裁判官を選べるわけじゃなし、ある意味で裁判官は法を守らせるのが仕事だから、秩序維持については、私たちより厳しい感覚を持っているのが当然と言えるけど…まぁ、気を引き締めていかないとな」
 玉澤先生も、少し困り顔だ。
「梅野さんの裏付け情報探しが重要になりますね」
「それと、本人尋問のときの態度だなぁ。これくらいたいしたことじゃないじゃないかって様子が見えると、反省の色がない、こういうやつを職場に戻せるかって、思われるだろうしな」

「わかりました。いい資料がないか、頑張ってみます。ところで、口頭弁論期日は出席した方がいいですか」
 担当裁判官と第1回口頭弁論期日が決まったことを知らせた私のメールに対して、梅野さんから問い合わせが入る。
「ご出席を希望でしたら来ていただいてもいいですが、出席の必要はありません。法廷ではほんのわずかな時間、技術的なやりとりがあるだけです。特に第1回は被告側は誰も来ないことが多いです。当事者の方が来られても、多くの場合、これだけですかって、拍子抜けされますよ」
「そうですか。では出席しません」
「もし被告の忍瓜商会から答弁書が出たら連絡しますが、その答弁書も1回先送りするための中身のない1枚ペラのものが多いのが実情です」
「そうですか。私は何をしていればいいですか」
「現実には、被告側から解雇理由についての具体的な事実主張が出たところ、答弁書で出ることもありますが、多くの場合は第1準備書面で出てきますので、そこで反論のための準備と打ち合わせをすることになります。それまでにもこれまでの打ち合わせで議論したようなことについて何か資料や思い出したことがあれば教えていただければうれしいですが、特にそういったことがなければ、連絡をお待ちください」
「わかりました」

 民事裁判の期日が早くて1か月、遅ければ1か月半、場合によっては2か月の間隔を置いて指定され、被告側では第1回口頭弁論期日前に出す答弁書では訴状に対する実質的な反論をせずに1回先送りのためだけの中身のない答弁書を出すことが多いことから、原告側では、訴状を提出した後、2か月とか3か月、やることもなく放置されるということが少なくない。当事者は、最初の方が熱意を持っているが、待たされている間に情熱が薄れることもある。あまりかっかしている当事者には少し頭を冷やしてもらった方がいいが。

2.第1回口頭弁論

 7月19日午前10時、私たちは、東京地裁4階の法廷で、亀菱裁判官が来るのを待っていた。口頭弁論期日の1週間前、忍瓜商会の代理人の橋江(はしえ)先生から、見事に型どおりの1回先送りの無内容な答弁書がFAXされてきており、その後裁判所とのやり取りで予告されていたとおり、被告側は欠席だ。こういうとき、出席しても無意味なので勤務弁護士だけを出席させるボス弁も多いと聞いている。美咲の事務所ではほぼ確実にそう指示されるという。美咲の事務所が、労働事件では、原告側になることはほとんどないが。しかし、玉澤先生は、どういう場合でも自分が現場にいて状況を確認したいし、裁判官に与える印象も考え、必ず出席している。
「起立お願いします」
 事務官が言う前から、法廷裏側から近づく足音に反応して、私たちは起立する。
「おはようございます」
 登壇して頭を下げて挨拶する裁判官に対し、私たちも礼をして、裁判官が着席するのを確認してから、着席する。
「令和元年(ワ)第6666号事件」
 書記官が事件番号を読み上げて、裁判官に事件記録を手渡す。
「本日は第1回口頭弁論期日ですので、原告は、訴状のとおり陳述、でよろしいですね」
「はい」
「被告から答弁書が提出されていますので、答弁書の陳述を擬制します」
 民事裁判では、第1回口頭弁論期日に被告が欠席した場合、現実には欠席することが多いのだが、事前に提出されている答弁書の陳述を擬制する、つまり陳述したことにするという扱いになっている。第1回口頭弁論期日は、被告側の都合を聞かずに裁判所と原告側の都合だけで決めているから、出席できなくてもある意味当然なので、そうなっている。出席している私たちだって、事前に提出している訴状を「陳述する」とひと言言うだけ、現実には裁判官から「陳述しますね」と聞かれて「はい」と答えるだけで、それを陳述と呼んでいるのだから、陳述でも陳述擬制でも大して変わり映えしないのだが。
「答弁書に請求の原因に対する認否も被告の主張もありませんので、次回は被告の反論準備ということになります。次回以降は弁論準備手続でよろしいですか」
「はい、けっこうです」
 弁論準備手続というのは、法廷ではなく、書記官室脇の小部屋、東京地裁労働部の場合13階南側の小部屋で、裁判官と原告側、被告側だけで行う手続だ。公開法廷ではなく裁判官も黒い法服ではなくスーツやクールビズスタイルで現れ、近距離で話すため、ざっくばらんに話しやすく、裁判官に好まれている。東京地裁労働部の事件では、双方とも弁護士がついている事件はほぼ全件第2回以降は弁論準備手続で行い、その次に法廷で開かれるのは尋問期日か弁論終結期日という運用がなされている。法律上は公開法廷が原則なので、裁判官は一応、当事者にいいですかと聞くが、ここでイヤだという反応があることは、よほど事情を知らぬ弁護士でない限り、想定されていない。
「次回期日は、すでに調整済の8月27日午後1時30分、労働部書記官室でよろしいですね」
「はい」
 被告の答弁書が出た時点で、被告から裁判所に期日欠席の上申があり、第2回期日の希望日が、現実には弁論準備期日として行うことを前提に担当裁判官の日程に合わせて3つほど出されて、労働部からこちらに連絡があり、私たちが、予め候補日の中から1番早い8月27日を希望していた。それが裁判官のいう調整済だ。
「被告の書面提出期限は1週間前の8月20日と指定します。本日の手続は以上」
 裁判官が起立して礼をするのに合わせて私たちも礼をし、法廷から出る。梅野さんが出席しても、法廷でのやりとりだけではなんだかわからないし、逆に事前にわかっていることを説明していれば、新たなことはない。強いていえば被告側の提出期限くらいだ。それも、期日の1週間前というのが標準となっているが。傍聴人がいたとして、中身はまったくわからないし、手続についても理解できないだろう。現実には、法廷の傍聴席にいるのは、大半が同じ時刻に口頭弁論期日を指定された事件で順番を待つ弁護士だから、事件の内容には関心がないし、他方手続として何をやっているかは聞いていればわかるのだが。そして、東京地裁労働部の場合、第2回以降はほぼ全部弁論準備手続にするため、法廷での口頭弁論の数が少なく、同じ時間に口頭弁論が指定されることは稀になっているから、傍聴席に別事件の弁護士を見ることもほとんどない。

3.キャッツ❤アイ

「狩野先生、忍瓜商会では、現在、私の過去の経費請求を調べて、何か不正がないかしらみつぶしに当たっているようです」
 第1回口頭弁論期日の報告の後、梅野さんから、会社側の情報についてメールが送られてきた。
「それは予想された範囲のことで、玉澤先生も打ち合わせで梅野さんに聞いていましたよね。打ち合わせのときには、不正な請求などしていないということでしたが、何かまずそうなものがあるのですか」
 たいした解雇理由がなく解雇してしまった会社が、弁護士からこれだけでは勝てないと言われて、新たな解雇理由を模索するのはよくあることだ。懲戒解雇の場合は、裁判所は解雇理由証明書等に記載されてない、解雇時点では理由にしなかった解雇理由を追加することを原則として許さないが、懲戒解雇ではない普通解雇では、緩やかに認める傾向にある。後付けする解雇理由で、使用者側にポピュラーなものが、経費の不正請求である。
「不正をする気はないですけど、近場の交通費はその日その日じゃなくて、1か月分まとめて書きますから、実際に行った経路や金額は覚えてなくて、路線検索で適当に入れて請求してますし、それ以外にも何か間違いはあるかも知れません」
「不正じゃなくてミスなら大丈夫ですよ。でも、そういう可能性があるなら、まずはJR東日本にSuicaの過去1年分の利用履歴が欲しいと連絡して個人情報開示等請求書をもらって郵送でSuicaの利用履歴を請求してください。1年分はそれで取れますから。すぐにやってください」
「わかりました。やります。アドヴァイスありがとうございます。ところで、狩野先生、もう1つディープな情報があって、忍瓜商事の総務部長と橋江弁護士がやりとりしているメールが入手できました。それによれば…」
 私は、梅野さんからのメールを読むのを中断して、梅野さんに電話を入れた。
「梅野さん、どういうことです?いったいどうやって他人の電子メールなんか」
「ちょっとネタ元を明かすわけにはいきませんが、入手できちゃったんですよ。それで、橋江弁護士は、私の不正請求を洗わせるだけじゃなくて、今淡杜の陳述書を作っているんだけど、会社から淡杜がもっと協力的になるように説得しろなんて言ってるんですよ。ひどい弁護士じゃないですか」
 私は、思わぬことに動揺した。会社側の弁護士の手の内がわかることの誘惑に駆られるとともに、被告側の橋江先生の手段を選ばぬやり口への憤激が胸を突いた。しかし…
「梅野さん、そこでストップしてください。玉澤先生と相談して連絡します」
 私は、電話を切り、別事件の記録を検討していた玉澤先生の脇に立ち、深呼吸した。
「どうしたんだい。他人の電子メールって、どういうこと」
「聞こえましたよね。梅野さんが、どうやったのかわかりませんけど、忍瓜商事の総務部長と橋江先生の間のメールを入手したって言うんです」
「そりゃあ、ダメだな。内容は私は聞かないが、狩野さんが黙ってるのが苦しいなら言ってもいい」
「ご配慮ありがとうございます。先生がそれでいいなら、先生のお耳を汚したくないので私の胸にとどめておきます」
 玉澤先生が私を見上げ、微笑む。
「ありがとう。さて、梅野さんに言っとかないとな」
 玉澤先生が、梅野さんに電話をかける。私は、玉澤先生の机の横に自分の椅子を持ってきて座った。チラリと、聞いてない風情で聞き耳を立てている六条さんを見やる。
「梅野さん、最初の打ち合わせで、会社の内部資料でも、あなたがアクセス権限があるものは、秘密とされていようが厳秘と書かれていようがコピーの持ち出しはOKだ、弁護士に見せる分には全然問題ない、それから会社の同僚、例えば総務部の友人にふつうにお願いしてくれる資料も大丈夫だ、だけど、自分がアクセスできない資料を他人のIDやパスワードを使ったりして持ち出すのは犯罪だし、友人に対して無理強いして出させるのはダメだよ、そこがボーダーラインだって説明したよね。違法なところに脚を突っ込むのはやめてください」
「玉澤先生、おっしゃることはわかりますが、相手が違法なことをやっているときに、こちらばかりがきれいごとを言ってられないということもあるじゃないですか」
「梅野さん、違法なことをする者はいつか報いを受けます。相手がどうだと言って自分の手を汚すのはやめましょう。心まで汚れてしまいますよ。それに、相手がということを言うとね、人間、相手がやることは違法で卑怯でアンフェアに見え、自分がやることはそんなに悪くはない、これくらいいいだろうって見えるもんですよ。目には目をって言いますが、そのハムラビ法典自体、その決まりがないと自分がやられたよりも厳しい報復をしがちだ、目を潰されたら命まで取ってやる、それで公平なんだと人は思いがちで、そういうことが横行したから、目を潰されたときは相手の目を潰すのが限度でそれ以上やっちゃいけないという決まりができたんですよ。当事者である自分がそれが公平だって思うことは第三者から見るとずいぶんと自分勝手な見方だというのが、ふつうなんです。相手との均衡って言い出したら、実際は全然不均衡なことを考えがちですから、そういう考えはやめましょう」
「玉澤先生がそこまで言うのならやめておきますが、先生、それで勝てるんですか」
「とにかくその時々にフェアにやれる限りでベストを尽くしましょう。勝てるかどうかは、保証はできないけれど、少なくとも、私は、このやり方で、アンフェアな手段は使わずに、多くの事件で結果を出してきたつもりです」
「わかりました。玉澤先生を信じてやります」


「困ったもんだな」
「先生は、メールの内容を知りたいという誘惑に駆られませんか。私は、一瞬、悪魔に魂を売りかけました」
「使えない情報をもらっても意味はない。使えないのに心を悩ませるだけなら、知らない方がいいと思ってるよ」
「目には目をって、そういう人の弱さと強情さわがままさへの洞察を背景に持ったものなんですね。知りませんでした」
「世界史で習わなかったかい?」
「そんなこと習わなかったと思います。私が授業中居眠りしてたのかも知れませんが」
「玉澤君と世界史で張り合うのは無理よ」
 梅野さんとの電話が終わったのを確認した六条さんが割り込んできた
「玉澤君が、アジア史マニアの教授たちが難解な問題を競って作る入試で有名な大学の出身なのは、狩野さんも知ってるでしょ。玉澤君は、その難問奇問で有名な世界史の過去問でも専門模試でも9割以上コンスタントに取ってた世界史オタクなんだから」
「あの…六条さんって、玉澤先生とは小学2年生のときの同級生だっただけじゃないんですか。どうして大学入試のことまで知ってるんです?」
 私の目の端で玉澤先生がうつむくのがチラリと見えた。
「うふふ、たまピ~。どうしようかな」
 六条さんがうれしそうに私を見、玉澤先生に流し目を送る。
「特に隠してたわけじゃ…」
 玉澤先生の弱々しい声が響く。
 どういうこと、2人にはまだ隠された過去があったの?

第4章 ひと夏の経験 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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