第4章 不安

1.美咲-2

 三が日が明けた4日の朝、私は事務所に出る前に、美咲とともに初詣に来た。私は神頼みはあまり好きではない。だから、初詣もあまりしないし、自分のことを神に祈ることも、あまりしない。
「麻綾、何をお願いしてたの?」
「私は、自分のことは神頼みしない方だから、玉澤先生の健康を」
「えっ、恋愛成就じゃないの?私は明治神宮の方が近いしそっちがいいって言ったのに、麻綾が東京大神宮まで引っ張ってきたんだよ。ここ、縁結びの神様で有名なとこでしょ」
「ええぇっと…そうなの。私知らな…」
「麻綾、今日は飲んでないのに頬が赤いよ」
「あれ…寒いから、かな?」
「素直じゃないんだから。まぁ、いいや。私が代わりに祈っといたよ」
「何て?」
「今年は、麻綾が玉澤先生と思う存分×××できますようにって」
「ええっ…そんなことお願いしたの?」
「本当はそうしたいんだろ」
「そこは、まだ自分の気持ちがはっきりしてない。心の整理がついてないの…美咲、その『思う存分』って言い方、すでに一度はしてることを前提にしてない?」
「隠さなくていいんだよ」
「違うって」
「ふ~ん…おみくじ引こうか」
「うん」
 私たちは、それぞれにおみくじを引き…私のは何と…
「ええっ…、『大凶』って、こんなの本当にあるんだ。病気…『長引く用心せよ』って、恋愛は…『恋敵に注意』って、何これ?」
「ほら、やっぱり恋愛運、気にしてるじゃない」
「え…いや、やっぱり書かれてると…」
「その健康運、麻綾は玉澤先生の健康を祈って大凶引いたんだから、玉澤先生が病に倒れるってことかなぁ」
「美咲、縁起でもないこと言わないで。あぁ、私どうしよう」
「麻綾、無神論者で神頼みはしないんじゃなかったっけ?」
「う~ん、自分のことは気にしないんだけど…美咲のは?」
「ふふふ…私が引いたのは『大吉』だい」
「あぁ、ずるいなぁ」
「私は麻綾のことを祈って大吉引いたんだから、麻綾が運がいいってことじゃない?きっと今年は麻綾、玉澤先生とたくさん×××できるよ」
「どうしてもそこに持って行きたいわけ?」
「ははは、それより私たちはおみくじ見るなら『争事』だよね。ええと『利ありても勝ち難し』何だいこれ?大吉なのによくないじゃん」
「私は、『控えるがよし』って、弁護士が争いごとを控えてどうするよ?」
 私たちは、きゃあきゃあ言いながらおみくじに一喜一憂し、神社を後にした。

 暦の関係で今年は4日は休みの会社が多いのだろう。閑散とした電車に乗り、正月ムードの音楽が流れる緩い雰囲気の街をぶらぶらと歩いて、私は事務所に向かった。

2.年始

 4日の金曜日は、玉澤先生は、来なくていいと言ったけれど、私はうちにいるより玉澤先生の顔を見たいし、玉澤先生が三が日明けが提出期限の控訴答弁書を抱えて年末年始をどう過ごしたのかも気になるので、朝10時に出勤した。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「あぁ、おめでとう。こちらこそよろしく」
 元気満々の私に対し、玉澤先生はまるで正月らしくないどんよりした雰囲気で応じた。
「先生、年末年始、休まなかったんですか」
「しかたないだろ。控訴審は会社側が弁護士を替えて、出てきたのが元東京地裁労働部の部長だった王者先生で、解雇理由をほとんど差し替えた分厚い控訴理由書とたっぷりの書証が出てるんだ。これを潰すには相当気を入れてやらないと」
「無事に間に合ったんですか」
「ああ、控訴答弁書は昨夜FAXしたよ。高裁が答弁書は第1回口頭弁論期日の2週間前までに出せって、それで1月17日に期日指定するんだもんなぁ」
「そう言われて1月3日に書面提出するの、先生くらいだと思いますよ」
「だって、提出期限は1月3日になるだろ」
「裁判所、1月3日開いてないですよ」
「だからFAXで送った」
「そこまでして提出期限守ろうとしませんよ。ほとんどの人は。ところで、六条さんは?」
「控訴答弁書と証拠説明書と、控訴審で追加提出する書証を裁判所に提出しに行ってもらってる。書証はFAXじゃ見にくいし、FAXで送ったのは期限を守ったぞと言うためだから、裁判所が開いたらすぐに紙でも出しておきたいからね」
「昨日送ったFAXの送信状に、クリーンコピーと書証は明日裁判所に正本を持参して、副本は会社側の代理人事務所が開いているなら持参するし、開いてなければ郵送すると予告してますけど、会社側の弁護士事務所は開けてますか?」
「いや、さっき電話したら留守番電話だったから、副本は郵送することにしたよ」
「世間に合わせれば、もう少し休めるのに」
「狩野さんも六条さんみたいなことを言う」
「六条さんに怒られたでしょう」
 六条さんは、玉澤先生が出勤しているか休んでいるか日々監視しているから、私と違って玉澤先生の顔を見る前から玉澤先生が年末年始に休まなかったことを知っている。今日は玉澤先生が出勤するなり叱りつけたのだろう。
「あぁ、年末には、どこかで休むよって約束したのにって、泣かれちゃったよ」
「六条さんの機嫌が悪いと、この事務所の雰囲気が一気に悪くなりますよ」
「そうだな。六条さんが戻ってきたら、今日はうちに帰るよ」
「その方がいいですけど、先生は確か、次は9日が期限の論文がありましたよね。裁判の書面じゃないから私も手伝えないやつ」
「そう。でもあれは、事件の書面じゃないから、うちで起案できる」
「先生、その状態で自宅でも起案するつもりですか」
「六条さんには言わないでくれ」
 六条さんには秘密っていうと、甘美な響きがあるけど、これはうれしくない。私だって、玉澤先生の体のことは、心底心配してるんだぞ。

 9日に予定の論文を仕上げた玉澤先生は、続いて15日が提出期限の玉澤先生が解雇事件で特に重視する会社側の解雇理由を具体的に展開した準備書面に反論する準備書面にとりかかり、私の提案と大幅に視点を変えた書面を作り上げた。その傍ら、15日に第1回審尋期日がある労働審判事件で、会社から出された33項目もの解雇理由を列挙した答弁書への反論の書面も連休を潰して作成していた。15日の審尋期日を終えるとようやくスケジュール的に一息つく予定だった。
 ところが、15日に、王者先生から玉澤先生の控訴答弁書に対する反論の分厚い第1準備書面が提出され、また嵐が吹き荒れた。通常は高裁では第1回口頭弁論期日で弁論終結となるが、期日の2日前にこんな書面を出されては、反論が間に合わないから期日続行となりかねない。しかし、1審で勝っているこちらとしては叩き潰して第1回で弁論終結させたい。玉澤先生は、会社側の分厚い書面から骨格部分を拾い出して、依頼者にメールと電話でここだけはすぐに反論材料の書類を探して持ってくるように指示し、関係者にメールして質問を投げ、16日に急遽依頼者との打ち合わせをねじ込み、16日のうちに反論の準備書面を書き上げてFAXした。
 17日の第1回口頭弁論期日で、こちらの希望どおり、弁論終結となり、判決期日は3月28日と指定された。
「今年は正月が来なかったような気がする」
 ため息をつく玉澤先生を横目で見て、私は、玉澤先生を引きずり寄せて押し倒し、膝枕して頭を撫でて眠らせてあげたいという衝動に駆られる。
(美咲、私、美咲がこだわるようなHなことよりも、玉澤先生の安らかな寝顔が見たいよ。初心なふりしてるわけじゃなく、今、本当にそう思う)

3.夏井-2

「被告側では、弁論準備期日当日になりましたが、乙第30号証から乙第32号証の電子メールを提出いたします」
 1月下旬に夏井さんの解雇事件の3回目の期日が、労働部の小部屋で、弁論準備期日として開かれた。私たちは期日の1週間前に、会社側が主張する解雇理由に対する反論の準備書面を提出した。その中で、私たちは、夏井さんが納品指示の際に製品の型番や数量を間違うミスを繰り返し、上司が納品指示のミスを注意し、事前に型番一覧表で型番や最少ロット、入り数を確認することを指示し、夏井さんが以後気をつける旨の返事をしながら、まったく改まらなかったという会社側の主張について、夏井さんはそもそも納品指示のミスをしておらず、当然、上司からの注意もなかったと主張していた。被告側からは、期日前には特段の反応はなかったが、期日当日、裁判所で、被告代理人から乙号証が手渡された。
 会社側の代理人の蟻蔵先生が、書証の趣旨を説明する。
「乙第30号証は、本件解雇の7か月前の一昨年11月15日付の上司からの電子メールで、原告の前日の納品指示のミスを注意し、指示の前に型番一覧表で型番やロット数、入り数等を確認するように指示し、これに対し、原告が同日付で、ミスを謝罪し以後気をつける旨返信したものです。乙第31号証は、その2週間後の11月28日付の上司からの電子メールで、原告が前日に納品指示において同種のミスをしたことを叱責し、指示前に型番一覧表を確認しなかったのかと問い詰め、これに対し、原告が同日付で、ミスを謝罪し型番一覧表の確認を怠ったことを認め、以後気をつける旨返信したものです。乙第32号証は、本件解雇の6か月前の12月14日付の上司からの電子メールで、原告が前日にまたしても納品指示において同種のミスをしたことを叱責し、原告が同日付で、ミスを謝罪しまたしても型番一覧表での事前確認を怠ったことを認め、以後気をつける旨返信したものです」
 私たちは、顔を見合わせた。夏井さんが納品指示のミスなどしていないというのに対して、玉澤先生が危惧していた内容の電子メールが会社側から裁判所に提出されてしまった。
「原告側は、これについて何かご意見はありますか」
 原告の主張が、書証によって真っ向から否定され、裁判官からは冷ややかな視線が注がれている。
「今、いただいたところですので、持ち帰って検討して対応したいと思います」
 玉澤先生が型どおりの答弁でしのぐ。声に勢いがなく、玉澤先生らしくない精彩を欠いた対応だが、致し方ない。
「そうですね。もちろん、今提出されたばかりですからね」
 裁判官は、あまり期待していない様子で、やはり型どおりに対応する。

「玉澤先生が危惧したとおりの電子メールが出てきましたね。こっちの考えが読まれているみたいに」
「まぁ、双方の主張から見て、ポイントは自ずから決まってくるものだが。それにしても、こちらにとっては、一番困る内容の電子メールだったな。そういうことはないよねと、夏井さんには念押ししたんだが…」
 裁判所を出ると、刺すような風が身に凍みる。空も、私たちの心も、雲にびっしりと覆われていた。

「そんなメールを見た覚えはありません」
 数日後、衝撃の弁論準備期日を受けた打ち合わせで、夏井さんは、強く否定した。
「そう言っても、電子メールが提出されてるんだ。このアドレス、夏井さんのものでしょう?」
「アドレスはそうですけど、私は、こんなメールを受け取ったことはありませんし、こんなメール書いてません。偽造メールですよ」
「自分に不利な書証を見ると偽造だって言いたがる人が少なくないけど、裁判官はそういう主張をすごく嫌うんだ。書証が偽造だと主張して、偽造だと立証できなければ、それだけでその裁判はもう負けだと覚悟した方がいい。偽造の主張はそれくらいの覚悟でないとしちゃいけない。そして、裁判官が書証を偽造だと判断することはごくまれだよ。ほとんどないと言っていい」
「そんな、だって実際にこのメールは偽造なんですよ」
「それが立証できますか」
「私のパソコンは会社の手にあります。上司と社内サーバーの管理者がぐるになれば、偽造できますよ」
「偽造することが技術的に可能だということと、実際に提出された書証が偽造だということとは全然レベルが違うことですよ。偽造が可能だからこの書証が偽造だということにはならない」
「じゃあ、どうすればいいんです」
「冷静に考えてみてください。夏井さんが納品指示のミスをしていないことを何か他のことで証明することはできないでしょうか」
「私は納品指示でミスなんてしていません。何度も言うように…そう言えば、大阪営業所で会社がいうような納品指示のミスがあったというような話を聞いたことがあります」
「何か、それに関する会社の文書とかありませんかね」
「ええと、どうだったか、ちょっとうちにある資料をもう一度当たってみます」
「何か足がかりになるものがあるといいのですが。どこかで何かにつながるかも知れませんから、ちょっとでも関係しそうなものがあったら教えてください」

「何か、見つかりますかねぇ」
「本来は、それほど大きな問題じゃないはずなんだけど、否認して、それが嘘だというような展開になってしまって焦点化されたからなぁ。コンピュータが会社の手にあって資料がほとんど手元には保存されていないというハンデがあるから、何が出てくるかわからないぞという事件なんだ。事実関係に自信がないならむしろ仮にそういうミスがあっても実害はないじゃないかという対応をしていれば大きな傷にはならなかったんだ。それを本人が絶対ない、自信があるって言ったから…」
「先生は、最初からそんなに強気に出ない方がいいっていう考えでしたものね」
「ああ、でもそうは言っても、本人がやってないというものをやったと言わせるわけにも行かないしね。それに、どちらにしても、今から方向転換というわけにはいかない。しかし…」
「夏井さんが何かいい材料を見つけてくれればいいですけど、何もなかったら、次はどうしますか」
「本人がそう言うからって乙号証の電子メールは偽造だなんて、確たる根拠もないのに主張するわけにはいかない。と言って、本人が納品指示のミスはしていないというのにミスがあったと認めるわけにも行かないし、本人はそんなメールは見たことがないと言っているからなぁ。悩ましいよ。夏井さんの主張する範囲内で、できるだけ穏当な書きぶりでお茶を濁すしかないかなぁ。なんだか情けないけど」
 玉澤先生らしくない弱気ぶりだ。玉澤先生は、よく弁護士はシェフのようなものだ、腕のいい弁護士はいい材料があれば絶品に仕上げられるし、並の材料でもそれなりにうならせることはできる、しかし材料が全然なければどうしようもない、無から有を作ることはできないって言っている。材料がないというのは、こういうものなのか。

4.美咲-3

「シェフか…言い得て妙だね。もっとも、玉澤先生は、自前の材料がなくても相手が出した証拠を材料にして料理してたりもするけどね」
 新宿3丁目のビストロでワイングラスを片手に、美咲が笑う。
「確かに、玉澤先生って、最終準備書面とか書くとき、相手が出した証拠を拾い上げてそこから論証するの好きみたい。相手がたくさん書証出すのを舌なめずりして待ってるかも」
 すでにほろ酔い加減の私は、玉澤先生が書面作成に集中しているときの様子を思い浮かべながら、うっとりして応じる。玉澤先生のネタになると、私はつい饒舌になる。

「でも、その事案、玉澤先生が私にこういうメールが出てきたりしたら困るねって言ったら、そのとおりのメールが会社側から出てきたんだよね」
「熱三電機の件だね」
「えっ、美咲どうして知ってるの?私、固有名詞は出さなかったと思うけど」
「何言ってんの。この間、麻綾、その件についてペラペラしゃべってたよ。本人が会社側の主張を全面否認してるんだけど、玉澤先生が懸念してたって。覚えてないの?」
「わ、私、そんな事件の打ち合わせの話、固有名詞付きでしゃべったの?そ、そんな…」
「ここのところ、麻綾、私より先に酔い潰れるからねぇ。私も、そんなことしゃべって大丈夫かなとも思ったんだ」
「ええと、それ、こことか飲み屋での話?それとも私の部屋に行ってから?」
「私もだいぶ酔ってたし、そんなに詳しくは覚えてないけど、飲み屋でもしゃべってたような気がする」
「あああ…」
 さすがに私は頭を抱えた。人前でそんなことを話すなんて、弁護士として失格だ。私って、酒に飲まれてしまってるんだろうか。
「麻綾、そうだとすると、ひょっとして、この間、麻綾の部屋に帰ってから、麻綾が『玉澤先生との×××が最高によかった。もうとろけちゃった』って、甘~い声出してのろけたのも覚えてないのかな?」
「美咲、さすがにそれはカマかけても無駄だよ」
「ええっ、麻綾、覚えてないの?」
 私は美咲とにらみ合った。
「美咲…美咲は私の親友だよね。お願いだから、本当のこと言って。私、本当にそんなこと言った?」
 私の懇願するような声に、美咲は折れた。
「ごめん。それは嘘」
「ああ、よかった。もし私が本当にそう言ったんだったら、私、精神科に行かなくちゃって思った。作話症って診断される」
「言ったか言わないかについて、ずいぶん自信なくしちゃったんだね。そこまで深刻にならないでよ」
「しばらくお酒を控えた方がいいかなぁ」
「そこで悩むの麻綾らしくない」
「まるで私が脳天気な大酒飲みみたいに」
「陽気な酒が麻綾の身上だよ」
「美咲ほどじゃないけど」
 結局、私たちは、『酒の恥はかき捨て』だとか、『明日は明日の酒がある』などと、いい加減なことを言って痛飲するのだった。

第5章 格闘 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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