第10章 取調1

1.追及

 新宿警察署の取調室に案内された私は、スチールの机を挟んで2人の刑事と相対した。一昨日、発見時の状況と玉澤先生に恨みを持つ人の心当たりについて聞きたいと言われたときよりも、表情が硬いように感じられる。私の位置づけは『第1発見者』から『重要参考人』に変化しているのだろうか。当番弁護士で出動した被疑者弁護のために私が何度か通った留置係の担当者のように愛想よくは対応してくれそうにない。
 もちろん、私は逮捕されたわけでもないし、まだ駆け出しとはいえ弁護士だ。警察も叩いて落とそうとするつもりではないのだろう。私の前には素太刑事が座り、柔和な口調で問いかける。後ろに控える強面の祟木刑事が出てくるのはいつだろうか。私は、そんなことをぼんやりと考えていた。
「狩野さんは、第1発見者ということですね」
「おそらくは。私が事務所に着く前に発見した人がいない限りは、そうですね」
「あなたは、現場で、倒れている玉澤さんの他に誰かを見かけましたか」
「いえ。だれも見かけませんでした。救急隊が到着する前は」
「あなたは、ビルの1階の入り口から入って階段を上って事務所の前についたのですよね。このビルの出入り口は1箇所で、4階に通じる通路はその階段しかない」
「そうですね。事務所の中の非常口からビルの外に出る非常階段を除けば」
「事務所が入っているニコニコビルは4階建てのビルで、屋上へ抜ける出口は封鎖されていますね」
「そうですね。上には行けません」
「ニコニコビルは1フロア1室ずつしかなく、共用スペースは各部屋の前と階段と踊り場しかない。つまりビル内にある、部屋の外の空間は、すべて階段から丸見えになっている」
「ええ、誰かがいれば階段を上るときにわかります」
「あなたが4階に向かう間にすれ違った人物もいない」
「そうですね。だれにも会いませんでした」
「念のためにお聞きしますが、あなたがニコニコビルに向かっている最中に、ビルから飛び出してきた不審な人物なんてのもいませんでしたね」
「もちろんです。そんな人を見かけていたら最初に言っています」
「そうすると、玉澤さんが襲われた時点からあなたが通報するまでの間に玉澤さんとあなた以外の第三者が現場にいた可能性は限りなく小さいですね」
「素太さん、その物言い、気になるんですが。まさか、私を疑ってるんですか?」
「現時点では、あらゆる可能性を検討する必要があります」
「ミステリーでは、第1発見者が疑われますが、第1発見者が犯人という例はまずないと…」
「これは遊びじゃないんだ。おふざけはよしてくれ」
 後ろから祟木刑事が割って入った。思ったより気が短いようだ。
「まぁまぁ、祟木さん、落ち着いて。弁護士先生を怖がらせちゃダメですよ」
 若い素太刑事が中年の祟木刑事をなだめている。ふつうは、若手が恫喝役、年配者が懐柔役だろうに。この人たちはどういう魂胆でやっているのだろう。私は別に怖がってもいないからいいけど。
「狩野さん、第1発見者どころか、語り手が犯人であってはならないというミステリーの大前提、言い換えれば『語り手を犯人にするのは禁じ手』ということさえ、クリスティがアクロイド殺人事件で破ってしまいました。そうなると、ミステリーの世界でも、今や何でもあり、ですからね」
 思ったよりも、ノリがいい刑事だ。私は犯人ではないが…
「ところで狩野さん。この日はどうして現場に?」
 実は、そこが一番説明しにくいところなのだけど、私としては、突っ張るしかない。
「私の仕事場ですから」
「もちろん、事務所におられても不思議はないですよ。金曜日の夜であなたが飲んでいたという状況でなければ」
「飲んだあとでも仕事をすることはありますよ。忘れ物をして取りに行くということも」
「そうですか。そうおっしゃるなら、そういうことにしておきましょう。さて、あなたの119番通報ですが」
 素太刑事はパソコンを操作して音声を再生した。

「はい、こちら119番。火事ですか?救急ですか?」
「救急です!59歳の男性が呼吸停止状態で倒れています。場所は、新宿区大久保4丁目15番3号ニコニコビル4階。玉澤達也法律事務所の前です。心臓は動いています。すぐに来てください…玉澤先生が、死んじゃう!お願いです。早く来て。玉澤先生を助けて!」
「すぐ救急車を派遣しますから、落ち着いてください。あなたのお名前と電話番号は?」
「狩野麻綾です。電話番号は……。お願いだから、急がないと、玉澤先生が死んじゃうよ~っ、やだやだっ、助けて!」

 自分の声を聞き、私は赤面しつつ、その時の心情がよみがえって鼻がツンとなった。警察官は、こんなに必死に玉澤先生を救おうとしている私を、どうして疑えるのだろう。
「狩野さん、この通報は3月22日金曜日の午後11時23分10秒に受け付けられました」
(そこか。嫌な予感がしてきた)
「お宅の事務所の事務員の六条さんから任意提出を受けたビデオによれば、玉澤さんが事務所を出たのは、厳密に言えば事務所の外に出てドアを閉めたのは、午後11時22分45秒です。玉澤さんが襲われたのは事務所のすぐ前でドアの鍵をかけたあとのようですが、あなたは玉澤さんが襲われて30秒足らずのうちに『たまたま』事務所の前にいた」
(しまった。六条さんがビデオを任意提出することは考えてなかった。監視カメラを設置した理由をどう説明したんだろ)
「狩野さん、私には、これだけでも、奇跡的な偶然に思えますよ」
「現実の世界で起こっていることの多くは、確率を考えたら奇跡的に見えるんじゃないでしょうか。素太さん、あなたが生まれた確率だって、2億か3億の精子の中からあなたが勝ち抜く可能性自体奇跡的と言っていい確率ですし、あなたの両親がその日セックスをしない可能性、突然仕事の電話がかかってくるとか、お酒を飲み過ぎたとかお腹が痛くなったとか、ブラジルでの1羽の蝶の羽ばたきでテキサスで竜巻が起こることまで含めてあらゆる因果を考えていけば、およそ起こりえないと評価できる数字になるでしょう?でも、あなたは生まれた」
「精子の4割はもともと運動能力がないそうですよ。精子にも受精能力の強弱があるでしょうから、能力の高い精子にとっては競争を勝ち抜く可能性は案外高いかも知れません。司法試験でも、狩野さんが合格した試験の合格率は25.9%でしたが、狩野さんのような優秀な受験生は100%受かる。玉澤さんが受験した合格率2%の頃でも、あなたのような人は確実に合格する。実現する能力がある人が目標を持って計画すれば、一見あり得ないようなことでも確実に実現することができる。そういうことじゃないでしょうか」
 話をそらせても、それに対応しながら、きちんと追い込んでくる。この人は手強い。
「狩野さん、大丈夫ですか。私の気のせいか、少し顔色が青ざめているように見えますよ。気分が悪いのなら少しお休みしますか。現下の情勢では、ここを離れてお休みいただくというわけにはいきませんが」
「いえ、大丈夫です」
 素太刑事は余裕の表情で私を見ている。まだ他にも手持ち材料があるのだろうか。

2.姿現し

「では、続けさせていただきます。あなたは、この日、親友の阿室さんと飲んでいたのですね」
「そうですね」
「飲んでいたお店は、下北沢の居酒屋ですね」
「そうです」
「そのお店は2軒目で、その前は渋谷のイタリア料理店で食事をしていたのですね」
「そうです」
「金曜日の晩でもあり、けっこう飲んでたんじゃないですか」
「それほどは…」
「1軒目でワインをグラス2杯、2軒目で冷酒を4合ほど飲んだあとで、急に『用事ができた』と言って店を出たそうですね」
「美咲から事情聴取済みなら、その通りだと思いますよ」
「金曜日の晩にお酒をたっぷり味わったあとで、慌てて取りに行かなきゃならない『忘れ物』なんてありますかねぇ。私なら、その日はゆっくり飲んで、忘れ物を取りに行くのは翌日か翌々日にするでしょうね。どうしても土曜日の朝に必要なものでなければ」
「この日に忘れ物をしたとは言ってませんけど」
「そうだな。忘れ物じゃなくて、し忘れたことがあったんじゃないかな」
 祟木刑事が口を挟んだ。
「祟木さん、もう少し聞いていてください。狩野さん、あなたの親友の阿室さんは、あなたがその下北沢の店を出た時刻は11時22分だと言うんですよ」
(まずい。まずい。まずい)
「あなたが姿現しでもできない限り、下北沢から大久保まで1分で移動することはあり得ないですよね。大丈夫ですか、狩野さん。ますます顔色が悪くなっているような気がしますけど」
 素太刑事は、獲物に狙いを定めて食らいつこうとする目をしていた。
「素太さんは、ハリー・ポッターがお好きなんですね。ええ、残念ながら、私は姿現しもできませんし、ついでに言えばポートキーも持ち合わせていませんでした」
 あの日、私は、もし魔法の瞬間移動を可能にするポートキーを買うことができるのなら全財産をはたいてもいいと思っただろう。私は、あのときの思いに戻り、唇を噛んだ。
「なるほど、聞くまでもないことかとは思いますが、煙突飛行もできなかったのですね、念のためですが」
「ええ、うちの事務所が入ったビルには煙突もありませんしね」
 煙突飛行は、ハリー・ポッターシリーズに登場する、煙突やそれにつながるかまどの間で瞬間移動したりテレビ電話のように通信する手段だ。姿現しとポートキーだけでは気が済まず、煙突飛行まで確認するあたり、素太さんはかなりのハリー・ポッターオタクのようだ。
「わかりました。さて、あなたが下北沢から大久保まで1分で移動できない以上、阿室さんの話は嘘ということになりますね。どうして阿室さんは嘘を言っているのでしょうね。あなたがアリバイ工作を頼んだからではないですか。事務所に向かった動機が後ろ暗いものでないなら、どうして阿室さんに嘘を言わせたんですか」
「私は、美咲に、あ、いや、阿室さんにアリバイ証言も何も頼んでません」
 私は、やっとの思いで言った。
「そうですか。では、阿室さんのことは置いておいて、これはどうでしょうか。玉澤さんが襲われたのはドアに錠をかけてから、とすると…あなたが玉澤さんを発見したとき事務所のドアの錠はかかっていたということでしたよね」
「かかっていました。私が錠をかけたのではありません」
「ありがとう。そうしますと、玉澤さんが事務所のドアを閉めてから犯人が玉澤さんを襲うまでに、まぁ3秒は見る必要があるでしょうね。そのあと、仮に犯人がそれ以上何もせずに逃走したとして、事務所の前から階段を降りてビルの入り口まで、どんなに頑張っても5秒はかかるんですよ。警察官3名で何度かやってみたんですけど。5秒の記録を作った警察官は、足を捻挫してゴールインとともにうずくまりました。5秒超えにチャレンジした警察官は、いずれも階段で足を踏み外して転倒し、リタイヤしました」
 素太刑事は、眉一つ動かさずに再現実験の結果を説明し、私は、音を上げる警察官の尻を叩いて階段駈け降りトライアルを続けさせる冷酷な姿を想像して戦慄した。


「階段を1階まで駈け降りた後、ビルから出てビルに向かってくるあなたに見つからないように逃げるためには、ここでまた3秒は余裕がないと無理でしょうね。そうするとね、ビルに着いたあなたがビルの入り口から事務所の前まで14秒で駆け上がらない限りは、犯人とすれ違わざるを得ないんです。理論上は。もし、あなたと別に犯人がいるとしたならば、ですが。ちなみに警察官3名でやってみた結果としては、4階まで駆け上るのに必要な時間は、かなり頑張って10秒でした。14秒で駆け上がることは、あなたにも可能だとは思いますよ。そうしようと思えば。でも、酔って、『たまたま』事務所に戻ったあなたが、大急ぎで階段を駆け上るという事態は、あまり想定できないんですがね」

3.墜落

「詰んだな」
 また祟木刑事が口を挟んだ。素太刑事は軽く右手を挙げて、祟木刑事を制する素振りをし、動揺する私の目を直視して続けた。
「1階から3階までの店舗と事務所の人たちは、この日午後11時までには錠をかけて退出していました。それは、セキュリティカードの記録で確認しています。つまり、あなたの他に犯人がいて、あなたが4階に駆け上る間は別の部屋に潜んでいたという仮説も、あり得ません。ミステリーになぞらえれば、ニコニコビルの共用スペースは、玉澤さんが部屋を出てドアを閉めた3月22日午後11時22分45秒からあなたが119番通報した11時23分10秒までの間、倒れている玉澤さんとあなた以外の人物が存在することが困難な、ある種の『密室』となっていたことになります」
 私の目に、素太刑事が挙げていた右手を下ろして私をまっすぐに指さし、『犯人はおまえだ』と宣告している幻覚がちらついた。きっと、素太刑事は内心ではすでにそう叫んでいるのだろう。
「狩野さんよ、もう投了した方がいいんじゃないか」
「どうして、私が玉澤先生を襲わなきゃならないんです」
「男と女の間じゃぁ、痴情のもつれで殺人事件なんていくらでもあるだろ。おおかた不倫の挙げ句に別れ話でもされたか」
「私と玉澤先生は、不倫なんてしてません」
「事務員の六条さんの話では、秋頃から玉澤さんと狩野さんの関係が怪しくなったようですが、不倫はしてないと思う、それは元同級生として女としての直感だけど、ということでした。ずっと2人に接している人の直感は信頼していいかなと私は思います」
 素太刑事が再度主導権を握った。
「怪しい関係と言われるのは心外ですけど、不倫してないのは間違いありません」
「あなたは、玉澤さんを好きなんでしょ」
「こんな場所で言わされるのは屈辱的ですけど。その通りです。好きです」
「狩野さん、顔色が戻りましたね。赤くなったというべきかもしれませんが。私は、今のあなたの恥じらいを見て、よかったと思いました。本当に、好きなんですね」
「何度も言わせないでください」
「しかし、玉澤さんには妻子がある。あなたは思いを寄せているけれども、玉澤さんは応じてくれない。つれなくされて思いあまって襲ったということじゃないですか。お酒を飲んでいるうちに悔しい思いが募って、とって返して襲うというパターンは、刑事事件ではおなじみと言ってもいい」
「本気で言ってるんですか?私は玉澤先生を恨みに思ったことありません。さっき、119番通報の音声を再生されましたよね。私は玉澤先生を助けたくて必死だったんですよ。あれが演技だとでも言うんですか」
「狩野さん、私は、あなたに殺意があったとは思わない。ただ逆上して見境なく何か固いものを握りしめて殴りつけたけど、玉澤さんが頭から血を流して倒れて意識もなくなり、あなたの通報にあるように呼吸停止までしてしまって、思いのほか重傷を負って死にそうになった。そこでもともと殺意はなかった、ただ少し懲らしめたかっただけのあなたが、はっとして、それは本気で玉澤さんを死なせたくなくて必死の思いで通報した、そういうことじゃないかと思う」
「勝手な憶測をしないでください」
「まぁ、あなたの内心については私の推測ですが、玉澤さんが事務所を出た時刻とあなたが事務所前から119番通報した時刻、これは動かぬ事実ですよ。それを前提として、私の考えとあなたの言い訳とどちらが合理的かは、もう明らかじゃないですか」
「ひどい。玉澤先生が意識を取り戻せば、私が無実だってはっきり証言してくれます」
「警察としても、玉澤さんが早々に意識を取り戻して、告訴意思がないと言ってくれれば有能な新人弁護士の将来を摘まなくて済むのですが、もしこのまま意識が戻らなかったら、そういうわけにもいかなくなりますから…」
「このまま意識が戻らなかったらって…そんな、そんな…」
 私は悪い想像をして泣き崩れた。
「自分のしでかしたことの重大さに気がついてもらえばいいのですが」
「違うって!」
 私は、涙を止めることもできず、怒りにうち震え、身もだえた。
 警察官が1人入ってきて祟木刑事に耳打ちした。
「パズルの最後のピースがはまったようだな。凶器が確認された。これに見覚えがあるな」
 祟木刑事の右手に、ビニール袋に入った私のミニ三脚が握られていた。
「それは、たぶん私の三脚ですが、しばらく前になくなったものです。どこにあったんですか」
「事件の翌朝、周辺の捜索の際に玉澤法律事務所の入ったニコニコビルの前の植え込みで発見した。まだあんたが病院から帰ってくる前だ。おそらく、犯人が、救急車に乗る前に救急隊の目を盗んで植え込みに投げ込んだんだろう。この三脚の台座部分から玉澤さんの血液が検出された。そして、ついている指紋は、狩野さん、全部あんたのものだった」
 目の前が暗くなる、ということが本当にあるのだなと、私は、このとき、実感した。


「顔を洗ってきますか。少し落ち着きますよ」
 絶句して頭を抱え込み、頬を伝う涙が流れ落ちるに任せていた私をしばらく見守っていた素太刑事が言い、私を化粧室に連れて行った。素太刑事は、私から一瞬も目を離さない。逃亡を警戒しているのではなく、自殺されると困ると考えているようだ。
 顔を洗い、深呼吸をし、少しだけ化粧を整えた私は、素太刑事に無言で目で合図して、取調室に戻った。
「どうですか。少しスッキリしましたか。心の内に押しとどめていることをすっかり話してしまった方が楽になるんじゃないですか」
 素太刑事の言葉が胸に響く。
 私は、しばらく黙り込んで、ついに言った。
「私は罪を犯しました。すべて正直にお話しします」

第11章 自白 に続く

 
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