第9章 天使?悪魔?

1.事件の流れ

「期日間に提出されたものを確認します。原告の準備書面(1)を陳述、原告から甲第15~28号証まで提出ですね」
「はい」
「原告から解雇理由について詳細な反論が出て、大筋主張は出そろったように見えますが」
 裁判官の発言に会社側の弁護士は慌てて、被告側ではもちろんこれに反論する予定ですと述べた。
「そうですか。被告側で反論されるのであれば、もちろん、お待ちしますが。被告側で反論準備にどれくらい必要ですか」
「1月半ほどいただきたい」
「1月半ですか。まぁ原告側の反論が詳細ですから、しかたないでしょうかね」
 裁判官は、被告側の書面提出期限と次回弁論準備期日を指定し、生木さんの事件の弁論準備期日が終了した。

「今日は、先生、発言されませんでしたね。先生が弁論準備で黙ってるの、珍しいですね」
「そんなことないよ。黙ってるときだってあるよ。今日は、裁判官がこちらの考えていることを率先して示してくれているから、あえて言う必要がない。裁判官は、けっこうバランスを取ろうと考える人が多いんだ。こちらが強く言うと、まぁそれがもっともなら乗ってくれることも多いんだけど、こちらの言うとおりに動くと相手に悪いと思うことがあるんだな。そういうとき、口を挟むことでせっかくの流れを戻してしまうこともある。だから、裁判官がはっきりこちらに向いているときは、黙ってお任せする方が得策ってこともあるんだ」
「私たちの準備書面、かなり効いたって読んでいいですか」
「あの裁判官の様子を見て、そこに疑いを感じた?」
「いえ、でも私の受け止め方があっているかを先生の言葉で確認したいなと思って」
「裁判官の様子は、被告が反論したいのならどうぞ、止めるわけにはいきませんからってところだ。被告側は反論の準備書面を出してそれ一本で裁判官の心証を逆転できない限り、この事件の流れは決まりだよ。裁判官は、出てきた準備書面を読んで、心証が逆転しなくなったら、そこで事件は決まりと考えることが多いらしい。そういうことを書いている裁判官の文書を複数見たよ。わざわざ反論すると言って、それでたいした反論ができなければ、かえって自分の首を絞めることになる。どこまでいっても反論の書面を出すと言い続ける会社側の弁護士が少なくなくて、そういう弁護士は最後に主張した方が勝ちだと思っているんだろうけど、大きな間違いだと私は思ってるよ」
 私は、私なりの苦労をそれなりには活かしてもらった準備書面が功を奏したことに安堵と、しみじみとした喜びを感じた。
 裁判所を出て見上げる空には、もくもくとした入道雲がそびえている。もうすっかり夏だ。生木さんの事件の担当裁判官は、この後すぐ夏季休廷に入る。私たちはまだ夏休みまで、もう少し働く必要があるけれど。

2.賞与の請求

「ボーナス分は請求しないんですか」
 事務所に戻って、玉澤先生と私は、解雇を争って提訴する予定の松代さんとの打ち合わせに入った。会社への請求を整理する中で、松代さんが聞いた。
「先日のお話では、松代さんの会社のボーナス、裁判ではふつう賞与と言いますが、賞与については査定があるし、その年ごとに会社の業績で係数が変わって、実際に相当上下しているということでしたよね」
「そうですね」
「それに、賞与規定もお持ちでないということでしたが」
「ええ、会社のイントラネットにはあれこれ規定類があったと思いますが、ダウンロードしていません」
「昔は、一律に夏季賞与は2か月分、冬季賞与は2.5か月分というように決めている会社が多くて、そういうときは、解雇無効となって勝訴すると、賞与分も含めたバックペイの支払が命じられます。しかし、賞与額が決まっていないというか裁判所が自分で計算できないというようなとき、つまり査定によって変わるとか、毎年業績によって係数が違うとか、そもそも決め方がはっきりしないというような場合は、解雇無効でも、バックペイは月例給与分だけで賞与分は負けるということが多いんです」
「現実にはボーナスがけっこうな割合を占めるのに、裁判で勝ってもとれないというのでは納得できません」
「支払がどこまではっきりと約束されているかですね。金額まではっきり約束していれば裁判所は支払を命じるし、払うとは約束しているが金額はあらかじめ決まっていないということだと、裁判所は支払を命じようがない」
「やりようがないのですか」
「とりあえず過去の実績額で請求してみて、会社側が賞与額自体は特に争わないという姿勢の場合、つまり解雇が有効か無効かは争うけど負けた場合の賃金支払額は争わないという場合は、裁判所も支払を命じてくれますが、そこも争われると厳しいですね。あとは、解雇無効の主張と合わせて、解雇が不法行為だという主張をしてその損害額として解雇がなければもらえたはずの賞与額を含めるというやり方があります」
「不当解雇されて、そのおかげでボーナスがもらえないなんて許せないことですから、当然その分の損害も賠償されるということですね」
「ただ、解雇が無効となるレベルと、解雇が不法行為だというレベルは、裁判官によっても価値観の違いはあるようではありますが、けっこうハードルの高さが違って、そう簡単ではありません。解雇は無効だけれども、不法行為とまでは言えないというケースが相当あります。むしろ、その場合が多いと言ってもいい」
「不当解雇で解雇が無効なのに、月々の給料分は勝ってもボーナス分はとれないことが多いということですか」
「金額が決まっていない場合はそうですね」
「それから、解雇の裁判中に、定期昇給があるのですが、それはどうですか」
「それも、規定上定期昇給の要件と金額がはっきり決まっているか、要件がある場合はその要件を満たしているかどうかによりますね」
「会社が悪いのに、会社が一方的に決めている規定の仕方で解雇された労働者が損をするというのはおかしいと思いませんか」
「賃金の決め方には、最低賃金を下回らないことと、法定労働時間の1日8時間、1週40時間を越えたら割増賃金を支払うこと以外には、法律上の制限はなくて、それは使用者の自由というか、建前としては労働者と使用者が契約で自由に決めるということになっています。あいまいな約束だと、裁判所は口出し難いということです」
「そういう会社に勤めたのが悪いということですか」
「そういう約束で就職したのだからしかたないということですね」

「ただ、裁判での請求や判決はそうとして、実際に勝訴して現実に復職するということになった場合は、双方の代理人が話し合って、判決は無視して解雇がなかったときと同じように扱いましょうということになることが多いですよ」
「どういうことですか」
「判決では、月例給与は総支給額ベース、もちろん、通勤手当や時間外手当は現実に通勤や時間外労働をしていないから認められないのがふつうですが、契約上の賃金額が税金や社会保険料を差し引かないで認められますし、支払までの間の遅延損害金、会社なら年6%、会社以外の団体だと年5%の遅延損害金もつきます。他方で、現実に復職させるとなると、社会保険は解雇時点に遡って資格を回復させて精算しますし、会社側は税金も源泉徴収することになります。それを考えると、判決どおりに支払うより、復職させるのなら、とにかく解雇がなかった場合と同じようにする方が合理的ということで双方が一致できることが多いわけです。その場合、判決で認めていなくても、賞与も他の人同様に支払ってもらい、定期昇給も解雇がなかったときと同じに扱えということになるのがふつうです」
「なるほど、現実に復職できる場合は、最終的には、賞与や定期昇給も反映されうるということですね。でも、金銭解決の和解の場合は、賞与を請求していないと不利になりませんか」
「金銭解決の和解をするときは、請求がどうかは関係ありません。解決金は月例給与を基準に何か月分というやりとりをすることが多いですが、それも月例給与を基準にしなければならないわけでもなくて、きりのいい数字を特に根拠なくいうときもありますし、賞与を含めた年俸で1年分とか2年分とかで言うときもあります。そのあたりは、請求内容ではなくて、解雇無効という判断がはっきりしているか、会社側がどれほど復職させたくないかなどの事情で決まってきます」
「そうすると、最終的な決着のレベルでは、賞与の請求をどうするかが影響しないことが多いということなんですね」
 松代さんは、今ひとつスッキリしない顔で帰って行った。

「判決では、解雇無効で勝訴しても、すべて解雇がなかった場合の通りにはできないんですね」
「労働関係っていうのは、様々なことがあって、その1つ1つを全部判決で確定するなんていうのはどだい無理なことだよ。現実には本当に復職することになれば、会社側でも解雇がなかったのと同じに扱うのがふつうだし、現実には復職しないのならそこを細かく気にしてもしかたない。大きなところ、復職できるか、解雇無効の判断をとれるかをまず考えるというか、目指すべきだと思うんだが」
「賃金の決め方については、法律の規制というか、制約が少ないんですね。学問として学んでいるときは気になりませんでしたが、裁判をする視点で見ると労働者側には厳しいですね」
「そういう制度設計だからね。賃金だけじゃなくて、退職金とか、病気の場合の休職制度も、法令上は何の制約も保障もない。退職金制度や休職制度を作るかどうかさえ使用者の自由だし、その内容も使用者次第だから、就業規則とかの規定類でどう決まっているかを見て考えるしかない」
「でも労働者はそんなことまで就職するときに調べることは難しいし、ふつうは気にもしていません。法律で守ってもらえると思うのも無理はないと思いますが」
「残念ながら、法律を作っている人たちはそれほど労働者の味方じゃないからね。しかも近年は労働者に敵対して経営者の自由を拡げることに熱心な政治家が若者に支持される傾向にあるから、これからいい方向に行きそうにもない」

3.勘違い男

「裁判の展開によっては勝てるかもしれませんが、やってみないとわからない感じですね。どちらかというと、見通しは、暗いという方がいいかなという気がします」
「そんな。悪気があってしたことじゃないですし、相手の女性も嫌がっている様子はなかったんですよ」
 澤里さんは、3人の女性に対するセクハラを理由に懲戒解雇された。1人は何度も食事に誘われて配転を申し出、1人は自宅までプレゼントを持ってこられて警察に被害届を出し、1人は部の宴会で抱きつかれたと会社の窓口に申告した。澤里さんは、宴会の時は酔い潰れてしまいまったく記憶がないという。会社側の調査報告書によれば、被害女性は、しっかり胸を揉まれたと言っているようだが。
 生木さんの事件の弁論準備でいい気持ちになった私は、松代さんとの打ち合わせで消耗し、続けて入ったこのセクハラ男との相談で気分を害した。
 玉澤先生は、さらに確認する。
「宴会の時のことは本当に記憶がないのですか」
「疑ってるんですか。本当に何も覚えていないんです。会社の事情聴取のときもそう伝えました」
「酔って記憶がないというのが有利だとお考えですか?まったく記憶がないというのでは、相手に何を言われても反論できないということですよね」
「先生、そこをなんとかしてくださいよ。先生にお願いすると、弁護士費用はいかほどになりますか」
「ホームページでも明記しているように、私の場合は、裁判の着手金、依頼を受ける段階でお支払いいただく弁護士費用は、ふつうの事件で30万円+消費税、ふつうより手間のかかる事件では50万円+消費税です。このケースは相当手間がかかることが予想されますので、着手金は50万円+消費税ですね」
「勝てるんでしたら50万円でも喜んで出しますが、見通しが明るくないとなると躊躇します。着手金30万円でやっていただけるのでしたら、今すぐにでもお願いしたいのですが」
「それは残念ですね。お引き取りください」
 あっさりと言う玉澤先生に、澤里さんは慌てた。
「いや、先生、50万円お支払いしますから、お願いします。先生に見捨てられたら私は泣き寝入りするしかなくなります」
「すみません。澤里さんの事件は、会社側とは壮絶なやりとりになります。その手間の程度を考えたら、私は着手金50万円+消費税でないととてもやれません。着手金の額はホームページにも書いています。でも澤里さんはそれは高過ぎると評価した。最初の段階で不満を持っている人の依頼を受けてもうまく行かないと思うんですよ」
 労働者の味方だっていうから来たのに、とブツブツ言いながら澤里さんは帰っていった。

「感じの悪い人でしたね。でも、一般的な感覚では、最初に着手金で50万円というのはやっぱり高いと感じると思います。成功報酬の方は、勝ったときに、特に解雇事件だと会社側から支払われるバックペイの中から受け取るので、それほどは気にならないでしょうけど」
「着手金の50万円というのは、額だけで言えば、ふつうの感覚では高いよ。でも車を買うならその数倍、そうでなくても学習塾や私立高校、大学なら国立でさえ1年間の授業料はそれ以上する。エステや補整下着にそれくらいつぎ込む人も珍しくない。人生を左右するような裁判で、その額が高いかな」
「そう思っても出せない人もいます」
「客観的にお金がない人の場合は、法テラスに持ち込むさ。着手金は20数万円くらいを月々7000円とか1万円の分割ですむ。法テラスが利用できない人、つまり相応にお金があるのに、それでも弁護士に着手金を支払うのが惜しいという人は弁護士に依頼しなければいい。価格を見てそれを支払っても手に入れたければ買う、その価値がないと判断したら買わない。あらゆる商品、サービスがそうだ。労働者の味方だから安くやるべきだとか、自分には安くやってくれっていう人とは、あまりお付き合いしたくないね」
「先生は、そこよりも、勝てるんならいいけどそうでなければと言われたあたりでカチンときたように見えましたけど」
「そうだね。見通しがよくないから諦めるというのは1つの判断だし、本人の自由だ。見通しが暗いけど闘いたいというのも本人の自由だと言える。しかし、見通しが悪いときに勝つためにはかなりの努力が必要になる。弁護士に相当な労力をかける事件になるのだから、本人もそれなりの覚悟をしてもらわないといけないと思う。ましてや澤里さんの場合、労働者側に相当に非があるケースなんだし、私としたら、本人がなんとか職場に復帰したい、そのために全力を尽くしたいから手を貸してくれというのならできる限りやろうと思うけど、勝てるのならいいが負けそうなら金がもったいないから安くしてくれと言われたら、その程度の覚悟の人のために受けようとは思わないね。私だって、受けられる事件数には限りがあるんだから、より真剣な人を助けたいと思うよ」
「それにしても、女性3人に対してセクハラして、相手は嫌がってなかったって」
「その辺、私は男だし、まだ評価が甘いかもしれないな。穂積先生とか金井先生とかにセクハラの事案での勘違い男の多さ加減を散々聞かされてるよ。だいたい若い女性がおっさんに恋愛感情を抱くはずがない、中年男の身の程知らずの妄想だって、委員会の飲み会で2人に挟まれて延々と愚痴られたことがある」
「えっ、穂積先生と金井先生が酔って愚痴を言う姿なんて想像できない」
「いや、そんな酔って乱れるわけじゃないよ。まぁあの2人に挟まれるとそれだけで迫力あるけど」
 私は、修習生のときに使用者側のスターとして憧れていた穂積先生と、労働者側のスターとして崇めていた金井先生に挟まれて困惑する玉澤先生を想像して嫉妬した。私もそういう場に同席してみたい。
(でも、その・・・おっさんに恋愛感情抱いてる若い女性も、いるんですけど。それとも、お2人のいう「若い女性」には26歳は含まれない?)

4.天使?悪魔?

「さあ、お茶にしましょう」
 六条さんの声が元気よく響く。あぁ、もう3時過ぎだ。
「たまピ~は、生シューと桃のタルトどっちがいい?」
「あっ、ちょっと迷うな」
「フフッ、迷うのなら私と半分ずつシェアする?」
「いいね」
(あー、あー。うらやましい)
 私が乏しい機会を狙ってようやくできることを、六条さんはいともあっさりと実現してしまう。
「狩野さんは、ミックスベリーのタルト、好きでしょ」
「はい」
 六条さんにポイントを押さえられて、私は簡単に機嫌を直してしまう。それに、今日の六条さんは、それほど私をいじる気ではないらしく、そのままかじりついたりスプーンですくって分けたりはせず、流し台で生シューと桃のタルトを2つに切り分けて持ってきた。
「たまピ~、ここに生クリームがついてる」
 油断していたら、六条さんは、玉澤先生の口の端に付いた生クリームを指ですくい取り、その指をしゃぶって艶然と微笑んだ。
「あぁ、ありがとう」
 玉澤先生は、少し虚を突かれた様子ではあったが、六条さんの笑みにつられて少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「フフッ、私の方が指1本分生シュー多くとっちゃったね」
 六条さんは、色っぽさを押し隠すように、続いて無邪気にコロコロと笑った。破顔一笑というのか、パッと花が開いたように笑う六条さんの笑顔を見ると、私でさえ気持ちが華やぐ。そこが、楽しくもあり、悔しくもある。

「さっきのは、サービスなんですか」
 玉澤先生が、自席で書類の起案を始めたのを確認して、私は六条さんに小声で聞いた。
「なんだか、お客さんのことで嫌な思いをしたみたいだったから、癒やしてあげたいという気持ちはあったわよ。でもサービスっていうか、玉澤くんが和んでくれると、私もハッピーな気持ちになれる。さっきの笑顔は自分が楽しいから笑ってるのよ」
「私をいじる楽しみも、ですか?」
「狩野さんをいじることが目的なら、玉澤くんの口についた生クリームを指じゃなくて直接舐め取るって選択もあったかな」
「さすがに目の前でそれやられたら、頭が破裂します」
「隠れてならやってもいい?」
「えっ、えっ、そ、それ、そんな・・・」
 絶句して硬直した私の耳元に六条さんは囁いた。
「やらないわよ。狩野さんをいじるのも楽しいけど、そのために玉澤くんとの関係を壊したくないもの」
 言葉とは裏腹に、六条さんは、以前にもまして、私をいじることに喜びを見いだしていると感じたのは、私のひがみだろうか。

第10章 それぞれの夏休みに続く




 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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