第1章 私は麻綾

1.私は麻綾

「先生、さっき、どうしてあそこで私を止めたんですか」
 尋問が終わり、尋問後の心証を踏まえた和解協議のために、裁判官室のある13階に昇るエレベーターの中で、私は玉澤先生に聞いた。
「営業部長が注意・指導の具体例を挙げたらそれを潰しに行くのが私の役割でしたよね」
 弁護士になって初めての人証調べの機会に、出番を作れず、証人尋問デビューし損ねた私は、少し声をとがらせた。
「聞くとしても、他にも具体的な注意をしたことがありますかとか、梅並さんがその後車の中に資料を忘れたことがありますか、くらいだろ」
「それじゃいけませんか」
「ないって言わせた方がはっきりはするけど、散々聞かれてそれしか出なかったんだから、聞かなくても裁判官はそう受け取るさ。資料の置き忘れなんて単なるうっかりミスで業務能力に関係ない。何だ、それしかないのかって裁判官が呆れているところで終わらせた方が、心証がいいでしょ」
 (そういうものか…)
 玉澤先生は、労働事件、特に解雇事件で業界に知られたベテラン弁護士だ。労働事件で有名な大事務所にも、日本労働弁護団にも所属したことがないのに、こつこつと労働事件に取り組んで弁護士会では高い評価を受けている。私は司法修習生の時、弁護士会が主催した労働事件についての研修プログラムで玉澤先生の講義を聴いて、私もこういう弁護士になりたいと思った。
 あ…自己紹介が遅れたけど、私は、狩野麻綾、26歳、独身。玉澤先生の事務所の勤務弁護士になって4か月たったところ。玉澤先生の33年に及ぶ弁護士生活で初めて雇った勤務弁護士だそうだ。
 33年。そう、玉澤先生は60歳近くて、私とは親子ほどの年の差がある。実際、玉澤先生には私とほとんど年齢が違わない娘さんがいる。

2.解説は廊下で

 玉澤先生の読みどおり、和解の席では、裁判長から解雇無効、つまり私たちの勝訴の心証が示された。和解をまとめるということだけを考えると、勝ちと言われた方は譲歩する必要を感じなくなってまとまりにくいとも考えられる。そういうことから、心証をぼかしたり、さらには誤解させるような物言いをして、双方に譲歩させて和解をまとめようとする裁判官もかつては少なくなかった。しかし、労働事件になれた弁護士だと、人証調べまで終わって事件の見通しがわからないということはまずなく、そうした小細工をしても通じない。また、和解を蹴って判決をもらったら、和解の際の裁判官の話と反対だったなどということが続けば、裁判に対する信頼が失われる。そういう事情もあって、近年は、少なくとも人証調べが終わった段階での和解では、裁判官が心証を明示することが多くなっている。
「先生、解雇が無効となるのは、法律上は、『客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合』って、実質的には何も言っていないような規定ですけど、どうやって勝てると読めるんですか」
 和解の際の通例に従い、片方ずつ個別に事情と意向を聞かれ、裁判官が会社側と話をしている間私たちが廊下で待たされているとき、私は玉澤先生に聞いた。
「修習生の講義でも言ったように、常識的な判断なんだけどなぁ」
「いやいや、それが簡単にはわからないから、労働事件は専門性が高い分野だといわれてるんじゃないですか」
「口で説明するとなると難しいけど、慣れたら、解雇の有効・無効はそんなに外さないと思うんだけど」
「それは先生くらい経験を積んだら、でしょ」
「それを言い出すと、経験を積んでも必ず意見が一致するというわけでもない。人生観も含めて価値観の問題という部分があるから、同じ事実を見ても意見が分かれることはある。従業員が事業所での飲み会の後、酔った勢いで上司のパソコンを蹴って壊して、それを見ていた部下を巻き込まないようにお前は見ていなかったことにしろと言って、その部分は虚偽報告をしたということで諭旨解雇にされた事件があってね」
「諭旨解雇っていうのは、本来は懲戒解雇だけど、1ランク軽くして、退職届を出したら懲戒解雇扱いじゃなくて退職金は払うっていうやつですね」
「そう。私は、相談に来たときから、その程度のことなら解雇にまで値しないだろう、事実関係を使用者側がいうとおりに認めても解雇は無効になるだろうと判断した。ところが、裁判の過程でわかったんだが、使用者が処分を決める前に弁護士に相談したら、その弁護士は、懲戒解雇とせざるを得ない、ただまだ若いから自ら退職する道を残しておくことも検討の余地があると言ったというんだ。使用者は、弁護士の意見に従ってというか力を得て、諭旨解雇を決めたそうだ」
「その事件はどうなったんですか」
「私が最初に予想したとおり、解雇無効になった。使用者側はあきらめきれずに控訴し、控訴審も負けると、最高裁に上告受理申立までしたけど、上告不受理で、労働者の勝訴が確定した」
「使用者側の弁護士は、労働事件の経験が浅い人なんですか」
「そこなんだよ。それが、経営法曹会議の幹部なんだ」
「経営法曹会議って、使用者側の弁護士の団体、言ってみれば日本労働弁護団の使用者版ですよね。その幹部なら、当然、労働事件に相当熟練した弁護士じゃないですか」
「そう。私にはこのレベルで解雇が有効なんて考えはまったく理解できないんだが、熟練した弁護士でも、違う判断がありうる。同じ事件について正反対の判断が、ありうるってことなんだよな。そこは奥が深いということなんだか」
「でも裁判所は、1審も2審も最高裁も、解雇無効の判断だったんでしょう」
「そう。でも、裁判は生き物だからね。裁判の場で何が出されるか、どう展開するか、裁判官の価値観だとか場合によっては裁判官の感情でも、変わることはありうる。そこが怖いところだよ」
「先生は、その事件でずっと勝てると判断していたんでしょう」
「そうだよ。ただそれは裁判の流れの中で使用者側から出た主張や証拠が怖いものじゃなかったし、裁判官の反応を見ていてもこのレベルで解雇に値するなんて特異な価値観を持っているようには見えなかったから、それぞれの時点で、勝てると判断し続けていたということで、こういう事案だから何が起こっても勝てると予め言えるというわけじゃないんだ」
「う~ん、言われていることがわかるような、わからないような、モヤモヤした気分なんですけど」
「例えば、日本コクレア事件の東京地裁判決。その事件で、労働者が本人尋問で、『上司の指示でも納得できなかったらやらなくてもいい』と述べたらしい。判決文の認定ではそう書いてある。裁判官はそれを、労働者が自分の考えに固執していると評価した。その上で、裁判官は、裁判でもそう言い続けているのだから解雇前も職制を踏まえた行動をする意思がなかったと推認できるなんて言って、解雇を有効とする要素に使っているんだ。労働契約で、使用者、直接には上司っていうことになるが、その上司の指示や命令に従って労務を提供するのが労働者の基本的な義務なのに、上司の指示命令にまるで従う意思がない、そういう姿勢じゃ契約違反だ、ならば解雇されても当たり前だということだね。その理屈はそうなんだけど、でも、そもそも裁判での言動は解雇後のことだから解雇理由になるはずがないし、この本人尋問での発言だって、『不合理な指示だったら』とか『無理な指示だったら』と言っていれば、それで上司のふつうの指示や命令に従う意思がないというような認定はできないだろう。素人なんだから、そういう意味で『納得できなかったら』と言ったのかもしれないじゃないか。それを言葉尻を捉えて言われるんだったら怖くてやってられないよ。でも、現にそういう判決がある」
「原告本人尋問でのひと言で逆転もありうるってことですか」
「その事件は、たぶんひと言で逆転というのではないと思う。しかし、こんなやり方ができるんなら、原告本人尋問でのひと言で逆転という事態もありうるってことだよ。それに関しては、私にも苦い経験がある」
「今日の尋問で、私の答は大丈夫でしたか?」
 弁護士同士の会話に不安を感じたのか、黙って聞いていた梅並さんが口を挟んだ。
「大丈夫。問題なく終わりましたよ。私がずっとこのまま展開していけば勝てると言い続けたのは、事案の内容、つまり言われている解雇理由やそれに関する事実関係だけじゃなくて、裁判の過程で会社側が出してきた主張や証拠、これまでの裁判の展開を見てのことです。さらに今日の尋問での答と裁判官の反応を見ても、そこは変わらなかった。で、さっき裁判長も解雇無効の心証だと言ってたでしょ。この事件は、あとは、まぁ、何か、会社側が一発大逆転の致命的な証拠を発見したとかいうことでもない限り、もう結論は動きませんよ」
「えぇっ、何ですか、一発大逆転の致命的な証拠って」
「そりゃあ、わかりませんけど、梅並さんが実は会社の金を横領してたとか、今日法廷で言ったことの重要部分が真っ赤な嘘とわかる証拠とか」
「そんなのあり得ませんって。玉澤先生はどこまでも慎重なんですね」
「いや、ふつうに行けば勝ちってことは、早い時期からはっきり言ってるでしょ。でも、それと絶対っていうのとは別だってことですよ。今の情勢ではとか、今後ふつうに展開すればどうなるっていうのは経験を積めばふつうに読める。でも、100%ということは、どこまで行っても言えない。そういうことなんです」
「大筋は安心していいってことですね」
「ええ、大筋では」
 梅並さんは頼もしげに玉澤先生を見ている。私も早くこういうことを冷静に余裕をもって言えるようになりたい。せっかく玉澤先生の勤務弁護士になれたんだから、頑張って先生のノウハウを学んで身につけていかなきゃ。


 会社側の弁護士が部屋から出て来て、私たちが部屋に呼び入れられた。もう5時半を回っていた。裁判長から、被告側に梅並さんが希望する復職での和解を容認するように求めたが、被告側はどうしても飲めないと言っている、梅並さんが金銭解決は受け容れられないというなら和解は決裂となるが、それでいいかと確認された。梅並さんは予め聞いていたとおり、解決金をもらって合意退職する和解は希望しませんと言い切った。
 結局、和解は決裂し、次回の口頭弁論期日が指定された。その日までに、最終準備書面を提出しなければならない。この口頭弁論期日で結審し、その次は判決期日になる。民事裁判で、当事者が主張、つまりこういう事実があったという主張とその事実からこのような権利があるとかないとかいう法的な主張をとりまとめて裁判所に提出する書面は、原告側が訴えを起こすときに出す「訴状」と被告側が最初に出す「答弁書」以外は、すべて「準備書面」と呼ばれている。民事裁判の前半戦の大部分は、この準備書面と証拠書類のやりとりに費やされている。最終準備書面は、弁論の終結つまり結審に際して、それまでの主張が、提出された証拠書類や証言でどこまで立証できたかを論じる。こういう論証を業界では「証拠弁論」と呼んでいる。勝ち筋の側は、自分の主張が十分に証拠によって証明されていることを整理して示すことで裁判官の心証をさらに固め、負けそうな側は裁判官が見落としている証拠があると示唆して逆転を狙うのだ。
「復職までの道は遠いですね」
「峠は越えて、勝負は見えてますよ。粛々と最終準備書面を書いて判決に臨むだけです」
 玉澤先生は、ちょっと肩を落とした梅並さんの背中を叩いた。

3.始まりは研修会

 午後5時30分を過ぎると、東京地裁では通常の出入りに使用されている西側と東側の扉は閉鎖されてしまう。南側の守衛室前を通って建物の外に出たあと、とても狭い、通路とも言いにくいような隙間を通り、裏側の駐車スペースの南側のゲートからようやく敷地外に出ることができる。
 右手の国会議事堂方向の空が薄いオレンジに染まっているのが見える。春は曙というけれども、どこかほのぼのとした夕暮れも、心地よく思える。午後いっぱいを窓のない閉ざされた室内で過ごした後では、ビルの谷間から見る夕焼け空であっても、いっときの開放感にホッとした気持ちになる。
「私は、ここで失礼します」
「よい週末を」
「先生は事務所に戻って仕事ですか」
「ああ、週末に定方さんの事件の準備書面を書くから、その下調べをしておきたい。まったく、貧乏暇なしだよ」
 先生が自分に課した書面の水準が高すぎるから時間が足りなくなってるんじゃないですか、もっと体を大切にしてください、という言葉を、私は言えずに飲み込んだ。


 私は、玉澤先生と梅並さんと別れて、裁判所の裏側の弁護士会館に向かう。午後6時から、「クレオ」と名付けられた2階の講堂で、家事事件の研修がある。弁護士会では、様々な弁護士向けの実務についての研修がある。私たち新人は、多くの種類の事件ができるようにならないと独り立ちできないから、できるだけ研修は受けたいと思う。私も、労働事件だけで食べていけるわけはないので、他の分野の研修も受けておかなきゃと思って、いろいろ申し込んでいる。講師は、多くの場合、その分野で名を知られた弁護士だ。裁判官が講師としてくるときもある。
 6時にはまだ時間があったため、席はほとんど埋まっていなかった。階段型に机と座席がつながった講堂の中段の真ん中あたりの座席に、私は座った。先に来た人から通路側の座席を取ることが多いが、そうすると後から来た人が入りにくい。私は、そういうのが嫌いで、早く着いたら真ん中に入る。玉澤先生は、講堂の研修に聞く側で参加するときは、一番前の列の真ん中に座ることが多い。労働事件の研修をする講師でもたいていは玉澤先生より若いので、玉澤先生に面前に座られると相当なプレッシャーを感じるようだ。玉澤先生に聞くと、単に目が悪いから前に座るというのだけど。

 思えば、私が玉澤先生と初めて出会ったのは、弁護士会が用意した司法修習生向けの研修プログラムで玉澤先生の講義を受けたときだ。私は、大学時代も、「法科大学院」とも呼ばれる2年制のロースクールでも労働法を受講したし、司法試験の選択科目も労働法だった。だから、労働法は、得意なつもりだった。しかし、玉澤先生が語る労働事件のための知識は、私が知っていた労働法とは大きく異なっていた。授業で習う労働法では、法令や判例の「正しい」読み方が優先されていたのに対し、玉澤先生は労働者・依頼者のために法令や判例をどう使うかを説いていた。
 判例を正しく理解することが必要なのは、正しく読まないと裁判官を説得できないからで、「正しい」読み方を会得することが目的ではない。より使えるロジックを判例から読み取り、裁判官を説得するのに有用な論をどう補強していくか、判決文は、いつもそういう問題意識を持って読むべきだ。漫然と判例雑誌の「判旨」だけ覚えても、事件で使えなければ、実務では意味がない自己満足に過ぎない・・・
 玉澤先生の語りが私の脳内でよみがえる。
 解雇を争うときは、通常、労働者としての地位の確認と解雇時から判決確定までの間の賃金の支払いを請求しますね。この解雇時点まで遡って支払う賃金をバックペイと呼び習わしています。ところで、裁判中に別のところで働いたとき、特に正社員として働いたときはバックペイの請求権を失う、請求できないというゆゆしい学説があります。菅野さんとか菅野さんとか菅野さんとかですが(笑。裁判官には菅野信者が少なからずいますので、そういう下級審判決もいくつかあります。でも、労働者は、裁判の間の生活のために働けなかったら、裁判を続けられなくなりかねません。みなさん、これは労働者側にとって実務上非常に重要な問題です。使用者側からこういう主張をされたとき、第1の楯は、1987年のあけぼのタクシー事件最高裁判決です。この事件は、実は、労働委員会が解雇が不当労働行為、つまり労働組合員に対する不利益取扱い等に当たると認定して、労働者の原職復帰の命令とともに出したバックペイ全額の支払命令を会社が争った裁判と、労働者が会社に対して解雇無効を主張して訴えた裁判の2つがあります。会社が労働委員会が出したバックペイ全額の支払命令を争った方の事件の判決で認定されていますが、あけぼのタクシーを解雇された労働者は、裁判中、福岡タクシーという別会社で働いてあけぼのタクシー時代よりも多額の賃金を得ていました。それで解雇が無効の場合に会社、あけぼのタクシーが支払うべきバックペイから労働者が福岡タクシーから得た賃金を差し引くべきかが問題となりました。最高裁はここで、労働委員会がバックペイの支払を命じるときには、労働者が他で働いて十分な賃金を得ている場合には特段の事情がない限り、福岡タクシーでもらった賃金をまったく差し引かないというのは違法だと判示しています。どこまで差し引くべきかは、最高裁はこの事件では明言していません。同時に出された労働者が会社に対して解雇無効を主張した方の裁判の判決では、裁判所が命じるバックペイに関しては、あけぼのタクシー時代の賃金の4割までは差し引けると述べています。この判決では、こういったバックペイからの他の会社から受けた賃金の控除、差し引きについての判断が有名なんですが、最高裁は、この判決で、賃金の控除を問題にしているわけで、それは労働者が福岡タクシーで働いてもあけぼのタクシーへの賃金請求権はあるということが大前提なんです。わかりますね。菅野さんや一部の下級審判決が言うようによそで正社員として働いたら解雇された会社に対する賃金請求権自体がなくなるのなら、よそで働いた分の賃金を差し引いていいかとか、いくら差し引くなんてことはそもそも問題にもならないわけですよ。よそで正社員として働いたら賃金請求権はなくなるなんてことは、最高裁は考えていないんです。まず、これを主張してください。それでも不安なときは、第2の楯・・・
 まだ解雇事件で、原告となる労働者側が訴える際に最初に裁判所に出す「訴状」の1本さえ書いていない修習生の私たちに、玉澤先生は、使用者側からの反論に対する闘い方を教え込もうとしていた。修習生相手に手抜きも手加減もしない態度に、私たちは驚き、感心し、感動した。語っても語っても湧き出し続ける泉のような玉澤先生の言葉について行くうちに2時間はあっという間に過ぎた。講義が終わったとき、あまりにも大量の情報に私の頭はパンクしそうで、知恵熱が出るかと思った。
 自信に満ちた語り口と、実務的な判断がかなり微妙な場面では隠さずに迷いや悩みを打ち明ける生真面目さ、最後に「みなさん。労働者側でやってみませんか。経済的には報いられませんが少なくとも弱い者いじめはしなくてすみますよ」と呼びかけるすがすがしい表情と照れに、私は痺れた。
 そして私は、一応1週間迷った後、玉澤先生の事務所に電話を入れて、押しかけたのだった。

 玉澤先生の講義の想い出から覚めると、私はいつの間にかまどろんでいたようだ。いや、左手によだれの跡らしきものがあるところを見ると、爆睡していたのかもしれない。
 弁護士研修にも、かなり、当たり外れはある。玉澤先生のような貴重なノウハウばかりが詰まった息もつかせぬ講義もあれば、弁護士会が出しているガイドブックに書かれているような情報ばかりのレジュメを読み上げるだけの退屈なものもある。今日は、ちょっと外れだったか。いや、人のせいにしてはいけない。昼からずっと証人尋問と和解期日で張り詰めた状態が続いたために疲れて、緊張が解けて眠くなったのかも。研修の途中で出て行く弁護士もときどきいる。あ、今も1人音を立てて階段状の通路を降りて出て行った。でも、私は、それはいくら何でも失礼だという思いを持つ。もっとも、講義中に爆睡してるのとどちらが失礼かはわからないけれど。途中で抜けた方がいいかなぁ。最後まで聞くと、約束に遅れてしまうし。
 しかし、講堂の机の列の真ん中の方に座ってしまった私が退席するには、どちら側に出るにしても2人以上にいったん通路まで出てもらわねばならない。そこまで人に迷惑をかける決断ができずに、私は、うつらうつらしながら、講義が終了する8時まで研修に参加し続けた。

4.親友は酒乱

 約束の店は、隠れ家っぽい小料理屋だった。ぼんぼりの灯りだけの個室で、美咲は冷酒をすすっていた。
「お待たせ」
「遅いなぁ。このお酒、麻綾の奢りね」
 美咲は、もう1つのぐい飲みに冷酒をついで私に渡しながら笑った。
 乾杯した後、美咲は手慣れた様子で店員を呼び、料理をいく皿か注文し、私の知らない銘柄の冷酒を頼んだ。
 修習同期の美咲は、経営的には周囲からうらやまれている営業上手な弁護士が経営する中規模の事務所に就職した。
「こういう店は、事務所でよく使うの?」
「打ち合わせもかねて密談するのには、個室は便利でね。でも、2人だと誤解されそうで。2人で個室は麻綾とが初めてだよ」
「まぁ、なんて初心なことを。お互い男に縁がないってことかしら」
「既婚の三低男に忍ぶ恋してる麻綾に言われるか」
「三低男って・・・そりゃ、玉澤先生は身長は低いし収入も低いよ。でも学歴は低くない。それとも菅野大先生が長らく君臨し続けた、菅野先生が定年退官して名誉教授となった後も菅野門下の先生方が教鞭を執る東京大学以外は大学じゃないとでも?」
「低学歴じゃないけど、低視力。玉澤先生って5m離れたら顔判別できないって」
「そう。確かに弁護士会で知人の弁護士とすれ違っても、先方から声かけられるまで気がつかないことが多いけど。美咲、何でそんなに玉澤先生のこと知ってるの?」
「麻綾、ムキにならない。心配しなくてもあんたの恋敵にはならないから。実は、うちのボスが、去年、玉澤先生にコテンパンにやられてね」
「美咲のとこの事務所、労働事件多いの?」
「うちのボスは労働事件のことよくわからないんだけど、そこそこの規模の顧問会社をたくさん持ってるの。本当の大企業なら、顧問弁護士もたくさんいて労働事件専門の弁護士がいるけど、そうでないと顧問弁護士は1人。そこで労働事件が起こったら、うちに来ることになるわけ」
「そうなんだ」
「で、ボスは労働事件に苦手意識を持ってしまった。それで、ロースクールや試験科目で労働法選択の私を採用して、労働事件担当に養成しようと考えたの」
「それで、弁護士会の労働法制委員会にも来てるんだ」
「そう。ボスのご指名だから、胸張って出席できる。労働事件の判例とか、勉強して来いって」
「判例の勉強なら、美咲の事務所の方が雑誌もデータベースも完備してるんじゃない?」
「判決文を1人で読むだけじゃ頭に入りにくいし。判例勉強会なら勉強ついでに敵情視察というか玉澤観察もできるから」
「スコアラーか。玉澤先生に、美咲には手の内見せないようにって、言おうかな」
「そんなこと気にするタイプじゃないと思うけど。でも、麻綾、その物言い、世話女房みたい」
 美咲は、冷やかされてうつむいた私の顔を下から覗き込んだ。頬がほんのり赤らんで色っぽい。私もけっこう回ってきたかも。
「でも、玉澤先生の視点って斬新だよね。判例勉強会で判例の検討をしてると、たいていは、他の弁護士が気づかなかった読み方をするの。もちろん、労働者側に有利な読み方。それでいて、玉澤先生が言うのを聞くと、なんか説得力があって、納得しちゃう。なんでこんなの見つけ出すのか、特殊な視力があるのって思う。その分、現実のあたりを見回す視力は弱いのかな。私は少し離れて座ってるから、存在を気づかれてないと思うよ」
「間合いをとって背後から忍び寄って闇討ちにしようとしているかな、おぬし」
「ハハハ、命までは取らん。そっと近づいて後ろからギュッと抱きしめて進ぜよう」
「ますます許さん!」
 私たちの話はだんだんピントがずれていき、ケラケラ笑いながら、いつまでも続いた。

第2章 妖しい美魔女に続く



 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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