第8章 勝負の行方

1.忘年会

 葭子さんに梅野さんが声をかけたときの動画とそれに関する梅野さんの説明、黄嶺さんと梅野さんの関係についての梅野さんの説明を元に、私たちは、被告主張のストーカー行為に関してはその経緯がまったく異なり、待ち伏せもなく食事に誘う意図もなかったこと、黄嶺さんの着服を梅野さんは知らずまた関与もしていないことを詳細に論じた準備書面を作成した。私は、これと、動画を始めとする証拠を持って、12月27日昼過ぎに裁判所と橋江先生の事務所に届け、受領印をもらった。
 裁判所の提出期限の指定は単に12月27日なので、12月27日に郵送で発送しても提出期限を守っていることになる。しかし、年末に提出されても検討できないという亀菱裁判官の趣旨は御用納め前に受け取りたいということだろうと考え、私たちは、27日の昼過ぎに現実に受け取れるように、持って行くことにした。ここで、裁判所だけ持って行き、被告には郵送するという手段もとれるし、そうする弁護士が多いが、年末のギリギリの時期にそういう意地悪なことをするのもどうかと玉澤先生が言うので、被告代理人にも郵送ではなく、持って行った。
 重い準備書面の締め切りが御用納め前だったこともあり、昨年とは異なり、玉澤先生には、そして私にも、年末年始の宿題はない。それで、私たちは、27日夜、玉澤先生を引っ張って、六条さんが予約したレストランに連れて行き、忘年会をすることにした。


 レストランに着くと、六条さんが店の人に続き、玉澤先生の手を引いて席に向かった。六条さんは、玉澤先生を奥の席に座らせ、自分は隣に座った。必然的に私は玉澤先生の向かいの席に座る。玉澤先生の隣に女房然として座られると気にはなるが、私は玉澤先生の正面で顔を見つめられる席でいいと思う。シャンパンと生キウイジュースで乾杯した私たちは、久しぶりに優雅な会食を楽しんだ。
「先生は和歌もお好きなようですが、百人一首ではどの歌が好きですか」
 私は、美咲に平兼盛と壬生忠見のどちらの歌が好きかと聞かれて即答し、桜の散る様を見て紀友則を口ずさんだことを思い出し、玉澤先生に尋ねた。
「特にこれがというのでもないけれども、藤原義孝の歌が大人になると味わい深く思えたなぁ」
「大山札ですか。男には何かというと命をかけてもとか言いたがる人がいますけど、女の立場からすると、せっかく結ばれたのに、それで命捨てられたんじゃ、なんだよこいつって思いますもの。これからってときに」
「狩野さん、百人一首詳しいのね」
 六条さんが、興味を持って割り込んできた。
「いや、そういうわけでもないですよ。大会とかは出たことないですし」
「私も大会は出たことないんだけど、少しは心得があるつもりなの。狩野さんが百人一首できるのなら、一度勝負してみない?」
「いいですけど・・・」
 六条さんがやりたいと希望したので、私と六条さんは、新年の仕事始めの日に、百人一首の勝負をすることになった。
 何を賭けるかは、玉澤先生がいないところで話し合われ、玉澤先生を旅行に誘う独占権が賭けられることになった。勝った方は、1年間、玉澤先生を旅行に誘う権利を独占する。もちろん、誘われて応じるかは玉澤先生が決めることだが、負けた方は玉澤先生が応じるようにアシストをする。そして負けた方は1年間、玉澤先生を旅行に誘えない。この賭けの内容は、もちろん、玉澤先生に話してはならないことが約束された。

2.かるた始め

 1月6日。この日は基本的に電話もほとんどないとは思ったが、念のために午後5時まで待って、事務所の床にござを敷き、私と六条さんのかるた勝負が始まった。
 互いに25枚持ちの競技会方式だが、札を飛ばすと取りに行くのが面倒なので、払い手はなしにした。まず自分の持ち札を好みの通りに並べる。15分の準備時間に双方の持ち札の配置を頭にたたき込む。私は、大会に出た経験はないが、暗記はかなり得意な方だ。百人一首100首は元々暗記していたが、この日のために再度徹底的に暗記し、読み上げ用のCD-ROMで練習を重ねた。
 さて、時間だ。六条さんは気合いを入れ、私も座り直す。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり~今を春べと咲くやこの花~」
 読手の玉澤先生が競技会開始の決まり歌となっている序歌を詠み上げる。
「今を春べと咲くやこの花~しの・・・」
 私の左手の下段、すぐ手元に六条さんが飛び込んだ。払い手なしだから当然だが、六条さんはきちんと「ものや思うと」の札を押さえた。
(速い・・・払い手なしでこの速さは…)
 私は、ライバル若宮詩暢の得意のこの札を取ってダメージを与えたいと狙って構えていたのに取れなかった綾瀬千早のように、悔しがった。


「ものや思うと人の問うまで~、世のな・・・」
 私は右手上段の札に向かい右手を叩きつけたが、一瞬速く六条さんが押さえた。
「かは、常にも・・・」
「あっ、しまった」
 「山の奥にも」の札を手にした六条さんが悔しがる。
「お手つきですね」
 私は、六条さんの速さについていけないと判断し、「世の中は」の「天の小舟の」が双方の持ち札にない空札であることを思い起こして、「世の中よ」の「山の奥にも」を全速力で取りに行き、「は」の音が聞こえた瞬間右手をずらせ、札の横の床を叩いた。私の明らかなフライングにあせった六条さんは止まれなかった。

 しかし、私の記憶力と若さ故の反射神経をもってしても、地力に勝る六条さんを抑えることはできず、私の敗けは確定的だった。場には、私の陣にはまだ10枚あり、六条さんの陣にはもう1枚しかなかった。
「ちょっと、タイム」
 息を切らし、休憩を申し出た私は、六条さんを賛嘆した。
「六条さん、すごいですね。全然かないません」
「狩野さん、六条さんは、大会には出ていないけど、地元のかるた倶楽部の競技会では敵なしの強者なんだ。知らなかったのかい」
「そうなんですか」
「うちの娘は中学、高校でかるた部の主将で、校内では負けたことがなくて、私も娘が中学生になってからは勝てないんだけど、その娘も六条さんには勝てないんだ。何を賭けたのか知らないけど、何かを賭けて六条さんと百人一首で勝負するというのは無謀だと思うけどな」
 そうか、やはり、無謀だったか。
「玉澤君にアンフェアだと思われたらいやだから、狩野さんにハンデをあげる。その紫式部の札を狩野さんが取れたら、枚数に関係なく狩野さんの勝ちでいいわ。ただし読まれていないのにその札に触れたら、ルール上お手つきになるかどうかに関係なく触れた方が負け。どう、そのルールで」
 「めぐりあいて」の札は「め」の1字決まりで、私の陣内上段にある。私は、この札だけ注目して、玉澤先生が「め」というのを確認したらそれを取れば勝ちというのか。しかも別の札が読まれたときに触れたら負けになる、だからフライングができないのは、私だけじゃなくて六条さんも。いくら何でもそれは私に有利すぎないか。手元の下段ではないからすぐ近くではないが、上段でも私の方が近い。六条さんの方が鍛えられているとは言え、私も取るという判断をした後の速さはそれほど後れを取らない。それでも六条さんは、その条件で私に勝つ自信があるのか。バカにされてるんじゃないかという気持ちさえ生じたが、ふつうに続ければ私にはまったく勝ち目がないのだから、ここはありがたくお受けするしかない。
「六条さん、そんな大きなハンデもらって、本当にいいんですか」
「私も、ギリギリの勝負をやってみたい、緊迫感を味わいたいというところがあって。ギャンブル依存症の予備軍かも知れないけど」
「ありがとうございます。六条さんがそれでいいのでしたら、もちろん私には異存はありません」
「では、再開します。昼は消えつつ・・・」
 玉澤先生は、さっきの歌の下の句を再度詠む。
「ものをこそ思え~ちは・・・」
 六条さんが私の右手下段、手元の札を取る。
(ちはやも取られたか。でも、そこは勝負にはもう関係ない。本来なら、この1枚を取られたところで勝負は終わっていたが)
「からくれないに水くくるとは~うか・・・」
 六条さんが自陣の最後の1枚を取った。本来は先ほど「ちはやぶる」を取られた段階で私の側に送られて終わった札だが。
 空札が出ずに続いている。こういう流れだと「め」は早く来るような予感がする。玉澤先生の読みに神経を集中しよう。私は、「め」の音だけに注意していればいい。私は目をつぶり、心を無にして集中した。耳だけでなく、心で聞くんだ。


「激しかれとは祈らぬものを~め・・・」
 来た。私はかっと目を見開いて飛び込んだが、そのときにはもう六条さんが「雲隠れにし」の札を手にしていた。
「六条さん、玉澤先生が詠む前に取りましたね。お手つきしたらそこで負けの勝負なのに。読み始めの前に読手が息を吸う、その吸い方が次に来る子音によって微妙に違う、それがわかるんですか?」
「ふふふ、狩野さん、それは本当のかるたクイーンレベルの話よ。私にはそんなハイレベルの能力はないわ。目をつぶって玉澤君の発音に神経を集中した時点であなたの負けよ。私はただ玉澤君の口を見ていたの。あの時点でマ行の札はもう『めぐりあいて』だけだった。だから『め』かどうかじゃなくて、マ行かどうか、最初の子音が『m』かどうかだけ見ればよかったの。『m』は唯一唇をつける子音だから、玉澤君が口をつむった瞬間、もっといえば口をつむりに行った瞬間、音が出る前の段階で、私は取りに行けた。もし狩野さんもそれに気づいたら、本当にきわどい勝負になるから、本当にドキドキして手に汗握ったわ。こんなに極限まで緊張した勝負は初めて。あんまり気持ちよくて、クセになったら困るけど」
 六条さんは、会心の笑みを見せた。

3.第5回期日

「本日は、新年早々お集まりいただきまして、ありがとうございます。本日の弁論準備手続を始めます。まず主張関係ですが、期日間に提出されたものを確認します。原告から令和元年11月25日付求釈明、被告から令和元年12月9日付の第3準備書面、求釈明に対する回答ですね、これが出ていますのでいずれも陳述と」
 亀菱裁判官がテキパキと手続を進める。
「続いて、原告の令和元年12月27日付の準備書面(2)。被告第2準備書面に対する反論ですね。これを陳述してもらいます」
「はい」
 玉澤先生が律儀に応答する。
「書証関係ですが、原告から甲第10号証から甲第15号証まで、いずれも写しですね。ではこれを提出扱いとします」
 亀菱裁判官が一拍置いて続けた。
「さて、原告から原告が葭子さんに声をかけた場面、3回分全部の動画が提出されています。私も見させていただきましたが、原告としては、これは前回以来話題の原告の愛人の黄嶺さんが撮影したもので、原告が葭子さんに声をかけたのは食事に誘うことが目的ではなくて、原告が黄嶺さんと一緒にいるところを葭子さんに見られたかどうかを確認するためだったというご主張と理解してよろしいですか」
「そのとおりです。動画を見ていただけばわかりますように、原告は撮影者を意識してチラチラと撮影者を見ております。愛人とデート中に、愛人を待たせたまま、愛人が見ている前で葭子さんに声をかけているわけで、原告が葭子さんを誘う目的ではないことは、それだけでも明らかです。原告は、葭子さんと偶然遭遇して驚いてその後愛人とのデートの場所を変え、むしろ葭子さんを避けていたもので、葭子さんが帰宅経路を変えたためにまたしても出会ってしまったということで、原告が葭子さんを追いかけたわけではありません」
 玉澤先生が裁判官のまとめを受けて、さらに補充して説明した。
「なるほど。確かに、動画を見ても原告は撮影者を意識していますし、誘い方にもあまり熱意とか執着は感じられませんね。そうすると、葭子さんが困惑し畏怖されたことは間違いありません、それは動画にもよく表れていますが、それは葭子さんにはお気の毒ですが、誤解によるもので、原告にはストーカーの意図はなかったということになりそうですね」
「いや、この動画だけでそこまで言うのは・・・」
 裁判官が玉澤先生の主張を受け容れたのを見て橋江先生が慌てて口を挟んだ。
「百聞は一見にしかずですよ。それに黄嶺さんが長年来の愛人だというのは被告さんも主張しているところじゃないですか。愛人の目の前で他の女性を口説くなんて、ありえないでしょ」
「それは・・・」
「原告からは、今回、ストーカー問題についてはかなり詳細で明確な主張とさらに立証も出ています。それから黄嶺さんの着服への『関与』の点ですが、原告は黄嶺さんとのこれまでの関係について詳細な説明をした上で着服については知らなかったし関与もしていないと主張されています。やっていないという立証は元々困難だということもありますし被告側の『関与』の主張が具体的でなく特段の証拠もない現状の下では相応の主張に見えます。裁判所としては、そういう認識ですが、被告はどうされますか」
「もちろん、今回の準備書面に反論いたします。」
「そうですか。もちろん、被告が反論されるのであればその機会は与えますが、黄嶺さんの着服への原告の関与について、より具体的な主張や立証が見込まれるのでしょうか」
「現在なお調査中ですので、調査の進展に応じて、主張立証します」
「わかりました。ただし現時点ではっきりした宛てがないのであれば、長期間待つわけにもいきません。提出期限は今月中でいいですか」
「やむを得ません」
「では被告の提出期限は1月31日とします。次回期日ですが、2月5日の午後はいかがでしょうか」
「2時以降であれば」
「こちらもそれでけっこうです」
「私も」
「では、次回期日は2月5日午後2時と指定します。次回は、大方主張も出そろったということになりますので、一度進行について協議したいと思います。少し時間を空けておいてください。では、これで終わります」

「解雇無効の心証でしたね」
 橋江先生と郷音総務部長がエレベーターに乗り込むのを確認して、私は玉澤先生にささやいた。
「あぁ、動画がヒットだったな。それに着服関係で被告が解雇理由としての事実の特定も解雇理由への当てはめもほとんどできなかったからね。法的な理屈に乗せられないものを情緒的に並べられても裁判官としては相手にできない」
「亀菱裁判官は、労働者側に厳しいから、それでもダメかと、私は思っていました」
「労働者側に厳しいっていうんじゃなくて、理屈に合わないことが嫌いだっていうことじゃないかな」

第9章 君ってホントに に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
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