第5章 君にはホントに

1.第2回期日

 8月27日午後1時28分、私たちは東京地裁13階の労働部のカウンターで出頭カードに印刷された私たちの名前に丸を付け、廊下に置かれた長椅子に座る。被告代理人の橋江先生は先に来ていた。出頭カードには印刷された橋江先生の名前に丸が付けられ、その下に手書きで総務部長郷音(さとね)七八(なはち)と書かれていた。
「労働部る係の1時半の弁論準備でお待ちの玉澤弁護士、狩野弁護士、橋江弁護士、忍瓜商会の方、双方お入りください」
 担当書記官に呼ばれ、私たちは弁論準備の部屋に入る。部屋の一番奥の椅子に裁判官が座るので、私たち原告側は裁判官から見て右手に、橋江先生は裁判官から見て左手の椅子に座り、忍瓜商会の総務部長の郷音さんはテーブルから離して置かれている裁判官の正面側の椅子に座る。
 亀菱裁判官が部屋に入ってくるのを見て、私たちは立ち上がった。この部屋では、裁判官は橋江先生の後ろ側を通って奥に行くことになるので、橋江先生が脇によって椅子をずらせて通路を空けている。亀菱裁判官が一番奥の席に座るのを待って、私たちは椅子に座る。
「お待たせしました。では本日の弁論準備手続を始めます。まず、主張関係ですが、被告から令和元年8月27日付の第1準備書面が提出されていますので、これを陳述してもらいます」
 橋江先生が頷くのを見て、亀菱裁判官が続ける。
「証拠関係ですが、第1回で提出留保となっている甲号証、ここに置かれているのが原本でしょうか」
「はい、そうです」
 第1回は被告側が欠席なので、私たちは一応は原本を用意していたが、提出は次回の扱いとなっていた。それで今回提出の予定だから、私たちは、裁判官が入ってくる前から、訴状とともに出した甲号証の原本をテーブルに置いていた。裁判官が、訴状とともに出したコピーと、原本を照合していき、続いて橋江先生が原本を確認する。
「はい、原告側、甲第1号証から甲第4号証、いずれも原本で提出。被告側は乙第1号証から8号証の5までのうち、4号証、5号証と7号証、8号証の1から5までが原本でそれ以外は写しということですね」
 被告側の証拠説明書を見ながら亀菱裁判官が原本提出の書証を確認する。
「はい、これが原本です」
 橋江先生がクリアファイルから書証を取り出して裁判官に渡した。亀菱裁判官が、先ほどと同じように1枚ずつコピーと原本をめくりながら照合し始める。
「はい、原告側どうぞ」
 照合を終えた原本を亀菱裁判官から渡され、私と玉澤先生が、原本を確認する。乙第4号証は葭子さんの陳述書、乙第5号証は淡杜さんの陳述書で、これは一応、署名を確認する。私たちが見ても本人の筆跡かどうかがわかるわけじゃないけど。乙第7号証は梅野さんが社長に送った手紙。乙第8号証の1から5までは梅野さんの経費請求書で、これは梅野さんが自分で書いたものと認めているので、これも一応は見ておくという程度だ。乙第8号証には、鉛筆で書き込みがあるが、これは忍瓜商会の担当者が今回水増しかどうかをチェックする作業で書いたもので、特に気にする必要もないだろう。私たちが原本を橋江先生に返すのを待って、亀菱裁判官が進める。
「では、乙第1号証から8号証の5まで提出。被告から解雇理由について具体的な主張が出て、裏付けの証拠も出されました。セクハラのご主張に関しては早々と陳述書もご用意いただきましたので、まずは原告にご反論いただくということでよろしいですね。原告側、現時点で何か確認しておくべきことはありますか」
「そうですね。早々に葭子さんと淡杜さんの陳述書をご提出いただきましたが、お2人のセクハラの訴えについて会社側で調査した報告書とか、しかるべき委員会等での審議の議事録とか、そういうものはないのでしょうか」
「なるほど、葭子さんの陳述書の内容からすると会社として手続を取ってしかるべきと感じられますね。いかがでしょうか」
「被害者のお2人からは、セクハラ窓口への申告はありませんので、調査手続に至っておりません」
 裁判官の質問に、橋江先生はやや不満げに答えた。
「葭子さん、淡杜さんはセクハラとして申告していなかったのですね」
「葭子さんは上司の武納さんにセクハラだと強く訴えたが、武納さんが異動の希望を受け容れることを条件に説得したようです。淡杜さんについては、セクハラ申告に至る前に、原告の武納さんへの暴言や社長への手紙があり、解雇が決まったのでセクハラについて調査して処分するには至りませんでした」
 玉澤先生の確認に、橋江先生が怒気をはらんだ口調で答えた。
「そうすると、被告としては、セクハラよりも、武納さんに対する暴言なり社長への手紙が許せないというか、解雇の決定的な動機になったということですか」
「きっかけとしてはそういう見方もできるとは思いますが、解雇を決定するに当たっては、原告のセクハラ行為の悪質さも評価されています。また、解雇時点では発覚していませんでしたから、確かに原告代理人がおっしゃるような『動機』には含まれませんが、今回主張している経費の水増し請求も、ゆるがせにできない解雇理由です」
「ご主張はわかりました。とにかく、葭子さん、淡杜さんについて、会社に対するセクハラ申告はなかった、会社としての調査報告書の類いはないということは間違いないですね」
 橋江先生は渋々頷き、玉澤先生から目線を向けられた郷音総務部長も「そうです」と答えた。
「では、次回は原告側反論準備で、原告側では準備にどの程度必要ですか」
「提出までに1か月と少しいただけますか」
「そうですか。1か月と少し見て、10月4日でいいですか」
「すみません。提出日は週明けの方がいいので10月7日にしてください」
「わかりました。期日ですが、その週の金曜日10月11日でいかがでしょう」
「午前中横浜で、午後4時にさいたまの事件が入っていますので、午後早めの時間であれば」
 橋江先生がスマホでスケジュールを確認しながら答える。
「私は午後1時30分にこの部の別事件の弁論準備がありますので、それを外してもらえれば午後は大丈夫です」
「私も同じです」
 玉澤先生が念のために私の方を見たので、私もすぐに答える。
「それでは午後2時なら双方よろしいですか」
 全員が頷いたのを見て、亀菱裁判官は、次回弁論準備期日は10月11日午後2時と確認し、部屋を出て行った。

「やっぱり、葭子さんへのストーカー行為、簡単にはクリアできそうにないですね」
 労働部の部屋を出た廊下で、私は、橋江先生と郷音さんがエレベーターに乗り込むのを確認してから、玉澤先生に聞いた。
「亀菱さんだから、食事に誘っただけだしそれくらいいいじゃないかとは言ってくれないことは予想してたけどね。葭子さんの陳述書の内容からすると会社として手続を取ってしかるべきと感じられますって、はっきり言われちゃったからなぁ。もちろん、だから解雇に値するとまで言ったわけではないけど」
 想定内だから、動揺した様子はないが、玉澤先生もゆううつそうだった。

2.蒲田行進曲

「梅野さん、葭子さんの陳述書お読みいただきましたよね」
「はい。ちょっとショックで、読むのは辛かったですが、一応、繰り返し読ませていただきました」
 忍瓜商会から出された解雇理由についての具体的主張に対する反論を準備するため、今日はじっくりと梅野さんの話を聞こうということで、梅野さんに来てもらった。玉澤先生の、少し困ったような、疑うような表情に、梅野さんは戸惑いつつ神妙な姿勢で答える。
「葭子さんが帰宅経路を変えても、そこでまた梅野さんに声をかけられた、それでまた別の経路に変えてもそれでもまた梅野さんに声をかけられた。それがタピオカドリンクを飲みに行って偶然にばったり会ったという説明は、無理があるとは思いませんか」
「でも、本当に偶然なんです。待ち伏せなんかしていません。信じてください」
「私が信じるかどうかは関係ありません。裁判官を説得できるか、ですよ」
 玉澤先生は、全然信じてない顔で言った。
「梅野さん、当事者は、自分が経験したことだから、そりゃあ、真実を知っているだろう。しかし、裁判は、事実を経験していない、本来事実を知らない裁判官が証拠を見てどう判断するか、そういう制度だ。裁判官の事実認定は、基本的にシンプルなものですよ。当事者が争わない事実と、動かぬ証拠がある事実を大前提として、そういう前提でふつうはどうか、ふつうの人ならどう行動するかと考えるんです。ふつうのことなら証拠がなくてもそれで認定する。ふつうじゃないことを主張するなら、それを裏付ける証拠を出してください、そういう証拠があるならふつうでは起こらないこともあったと認定しますが、それがなければふつうはこうだと判断します。そういうことなんです」
「なるほど。そういうものですか」
「それでね、梅野さん、あなたが、自分のことじゃなくて、友人知人でもなくて、見ず知らずの人が、今梅野さんが言っているような話をしたら、あなたはそのとおりだろうと思いますか?」
「それは…そういうふうに言われたら、私だって言い訳してるかなと思いますけど、でも、実際に…」
 梅野さんは唇を噛んだ。
「タピオカドリンクの話も、一般論として蒲田に行っていたというレベルなら、それでも説明できるかも知れない。でもこの陳述書で具体的に示された場所を前提に、その説明は無理なんじゃないですか」
 梅野さんは黙り込んだ。
「玉澤先生、梅野さんが特定のタピオカドリンク店を好んで通っていたのなら、どうして経路が変わってもそこにいたのかという疑問は当然ですが、蒲田のタピオカドリンク店を飲み歩いていたということでしたら、もちろん疑いの目は向けられるでしょうけれども、一応筋が通るとは思います」
 うつむいて話せなくなった梅野さんに同情して、私は話に割り込んだ。
「先日、現地に行って確認してきました。葭子さんが梅野さんから声をかけられた場所は、どれも蒲田で人気のタピオカドリンク店の付近でした」
「1度目と2度目は、一応そういう説明もできるかも知れない。今のところ、梅野さんがその時にタピオカドリンク店にいたという裏付けの証拠はないけれどね。しかし3度目は、そういう説明は無理だろう」
 私の助け船にも、梅野さんは顔を上げず、うつむいたままだった。
「3度目の商店街の中も、タピオカドリンク店の前でしたよ」
 私は、現場を踏んだ自信で、現場を確認していない玉澤先生の指摘に刃向かった。
「狩野さん、現場を見ることは、とても大事なことだよ。でも、そこで得た情報をきちんと評価する必要がある。これを見てごらん」
 玉澤先生に言われて、私は、玉澤先生のパソコンを覗き込む。GoogleMapのストリートビューが表示されている。そうか、玉澤先生は、現場に行く代わりにこれで確認したのか。しかし、現場に現に行った方がより確実だ。私は、なお自信を持っていた。
「この先ですね。もう少し」
 玉澤先生が商店街の入り口から少しずつ奥に進めていくのを見ながら、私は現場を思い起こした。
「次の角辺りです。そこ…えっ」
 先日私が美咲とともに入ったこぎれいなタピオカドリンク店があった場所は、シャッターが閉じられ、店舗名の記載もない空き店舗だった。


「確かに、今、ここにはタピオカドリンク店がある。その店は今年3月オープンした。葭子さんが梅野さんに3度目に声をかけられたのは去年の10月25日の午後6時過ぎ。このストリートビューはお誂え向きに去年の11月撮影なんだ。3度目に葭子さんに声をかけたとき、周囲にはタピオカドリンク店はなかった。タピオカドリンクを飲んでいて葭子さんを見かけたというこれまでの説明は、無理ですよね、梅野さん」
 梅野さんはうつむいて震えていた。
 私は、玉澤先生に教えてあげるというふつうはできない強気の行動に出た拠り所となっていた、自分が現場を踏んだという自信が、ガラガラと音を立てて崩壊し、階段を転げ落ちるような墜落感を味わっていた。

3.プライベートビデオ

 梅野さんが頭をかきながら若い女性に近寄っていく。この人が葭子さんなのか。女性はこちらを向かず、横顔だが、驚いた様子だ。音声はかなり聞き取りにくいが、梅野さんが、こんなところで出会うとは驚いた、ここで何してるのかというようなことを聞いている。女性の方は、別にとか、はぐらかす答をしている。その後、梅野さんが、こちらを見ながら、せっかくだから食事でもどうですかと誘っている。まぁそれほど情熱的な言い方ではないとは言える。それに対して女性の方はこちらの方を見ることはなく、最初は困ったような素振りでいたが、意を決したように、お断りしますと答えた。梅野さんは、わかりました、また今度ねというように悪びれずに応答した。女性が立ち去り、梅野さんは一人残された。
 これは、夢ではない。打ち合わせのとき、玉澤先生に追及されて何も答えられず、今日はこれくらいで勘弁してくださいと帰っていた梅野さんから、私宛に動画ファイルが送られてきたのだ。
 梅野さんは、入手方法は明かせないが、葭子さんに声をかけたときの動画を入手することができた、使えるかどうかはわからないが見て欲しい。玉澤先生から淡杜さんとのやりとりの録音がないかと聞かれて、それはないのだけれども、葭子さんの方はやりとりそのものの証拠があるので、玉澤先生は興味があるんじゃないかと思うというのだった。入手方法が明かせないというのは困ると伝えたが、梅野さんは、総務部長と橋江弁護士のメールと違って、これは決して違法な手段で入手したものではない、それは保証すると答えた。
 しかし、この動画は使えるのだろうか。驚いたことに動画は梅野さんが葭子さんに声をかけた3回ともあって、内容は大方同じだが、回を追って葭子さんの驚いた表情が際立ち、お断りの口調が強くなっていく。確かに、梅野さんが葭子さんにここで何をしていると聞いていることは、自宅を調べて待ち伏せしているということとはそぐわない気もするが、それは梅野さんがそう装っているに過ぎないとも考えられる。梅野さんの誘い方がそれほど情熱的でないことや立ち去る葭子さんを追いすがったりしていないことも、下心はないというように評価する余地はあるが、人前でありまた上司としてメンツがあるからそのような態度にとどめているとも考えられる。他方、葭子さんの驚いた表情や断る際の口調などは、陳述書の記載よりも見る者に葭子さんの困惑や不快感を鮮やかに印象づける。やはり、提出して有利になるとは思いにくい。
 私は、ため息をついて、動画再生ソフトを切った。

「先生はどう思われますか」
 梅野さんは、玉澤先生の質問に答えられずに帰ったことで玉澤先生に負い目を感じ、打ち合わせのとき加勢しようとした私に、動画を送りつけてきた。でも、梅野さんももちろん玉澤先生に見て欲しいと思っているし、私も独りよがりの判断はするまいと肝に銘じ、動画を玉澤先生に見せた。
「なんとも言えないなぁ」
 つぶやきながら、玉澤先生は、再生を繰り返す。
「でも、興味深いビデオだな。撮影者は特定できないのかい」
「ファイルには撮影者情報はありません。梅野さんに聞いても、それは言えない、ただ、不正に入手したものでないことだけは保証すると、その一点張りなんです」
 もどかしいね、と言いながら、玉澤先生は動画に見入っていた。

第6章 神無月に囲まれて に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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