1.暴言の事実
「上司の武納さんとのやりとりですが、いただいた書き起こしでも、『彼女は嫌がってなんかいないでしょ。武納さんよ、あんた、やけに淡杜の肩ばかり持つけど、淡杜とできてるんだろう』となってますね」
翌週の水曜日、再度来所した梅野さんに、事前に送られてきた録音の書き起こしを示しながら、玉澤先生が確認する。
「ええ、『おまえが勝手にやっかんでるんだろ』とは言ってないでしょ」
「確かに、『おまえが勝手にやっかんでるんだろ』とは言ってませんけど、大差ないですね」
「暴言ということですし、『おまえ』ということに意味があるんじゃないんですか」
「『あんた』っていうのも似たようなものだし、全体として、武納さんをバカにしている感じがにじみ出ています。それに録音自体を聞くと、言い方も実に嫌みというか嫌らしい感じなんですよね。私は、この録音を裁判官に聴かせるのはマイナスの方が大きいと思いますね」
「そうですか。会社側が私の発言をねじ曲げているという証拠だと思いますが」
「この録音は、武納さんがしゃべり出してから始まってるんじゃなくて、通常業務中から始まっていました。常日頃から録音をされているのなら、淡杜さんとのやりとり自体も録音が残っているのではないかと思いますが、それはないんですか」
「いや、そんな、四六時中録音しているわけじゃないですよ。淡杜とのやりとりの録音はありません」
「確かに、この録音も始業からずっと録音してるんじゃないですから、業務時間中ずっと録音してるんじゃなくて、何かの事情で録音されたのだとは思います。でもこの録音を証拠提出すると、梅野さんは日頃から録音をしてるんじゃないか、淡杜さんとのやりとりも本当は録音されているけど、都合が悪い内容だから提出しないんじゃないかという不審感を持たれるリスクがあると思いますよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「録音は出さないで、『彼女は嫌がってなんかいないでしょ』とは言ったが、『おまえが勝手にやっかんでるんだろ』とは言っていないという主張でいくべきでしょうね」
「録音はあっても宝の持ち腐れですか」
「この録音は『宝』というよりは『地雷』に見えますよ。私には」
さらに、事実関係についていくつかの確認をした上で、梅野さんは私たちに裁判の依頼をし、解雇日の6月17日の翌18日を提訴予定日として、私たちは提訴準備に入った。
2.訴状
ずいぶん削られたなぁ。
私が作成した訴状案で、けっこう頑張って書いた「解雇理由に対する反論」の部分が、玉澤先生の案では大幅に削られていて、私は少し凹んだ。
逆に、解雇に至る経緯のところでは、梅野さんの業務成績が良好に推移していたこと、葭子さん、淡杜さんとの日常業務での関係が良好だったこと、その間の梅野さんの業務遂行に滞りもなく部全体の業績も順調であったことが、確実にしかもさりげなく加筆されている。直接の反論の形ではなく、本当に解雇理由に当たる問題があれば、それが日常的に継続していれば、業務全体や関係者との日常業務もギスギスするはずだが、現実はそうじゃないでしょと、さらりと示唆しているのだ。
こういうとこ、うまいんだなぁ、これが。できあがった書面だけを見ていれば、そういうものとしか見えないのだろうけど、原稿を出して具体的にどこを直されたかに直面する私は、玉澤先生の意図を、狙いを、その技巧を、その都度痛感する。
しかし、今回、葭子さんへのストーカー行為については、私にもこだわりがある。
「先生、梅野さんの訴状案の、本件解雇の違法性のところですが、今回はずいぶん、シンプルにされましたね」
「あぁ、狩野さんはけっこう頑張って書いてくれていて、いろいろ迷ったんだが、使用者側が主張する解雇理由では、社長への直訴状は言葉が過ぎてやや不安ではあるけど、全体として解雇有効にはならないだろうし、梅野さんの話には不確定要素が多いように思えたんでね」
「社長への直訴状は事実関係は争う余地もないですけど、葭子さんへのストーカー行為は事実を潰しておかないと印象が悪いんじゃないですか」
「蒲田に行った理由がタピオカだっていうけど、証拠があるわけでもないし、いつ頃からどれくらいの頻度で蒲田に行ってたのかを聞いても、梅野さんの話はぐらついていたし」
蒲田で梅野さんを見かけた話を打ち明けようかと、私はちょっと迷ったが、依頼者を疑い、また私生活をのぞき見たような後ろめたさを感じて、私は踏みとどまった。
「梅野さんは台湾での業務で地元の生活や文化になじむためにもタピオカドリンクを飲み続けてハマったと言っていました。その話は説得力があると私は思います」
「裁判官がどう受け止めるか、だな。中年男がタピオカドリンクのために蒲田まで通うというのを、裁判官が納得するか…待ち伏せなどしていない、では蒲田にいたのはなぜか。そこの説明がないのも苦しいけど、不自然なとってつけたような、タピオカドリンクを買うためという言い訳がついても、プラスにならないというか、下手するとかえってウソをついているという印象を強めかねないように思う。訴状では、不本意な感じはするけど、ただ待ち伏せなどしていない、別の用があって蒲田にいたというレベルで、使用者側の具体的な主張が出て必要に迫られたらそこでもう一度考えた方がいいと思うんだ」
「言わずにすむかも知れないと言うんですか」
「そこは、弁論準備での裁判官の様子にもよるね」
「必要に迫られたら、どう説明するんですか」
「結局は、狩野さんの起案したとおりの説明をせざるを得ないかも知れないし、その時までに何か裏付けがとれるとか、新しい情報がとれて、よりうまく説明できるかも知れない。今、自分で手を縛らなくていいじゃないかということさ」
これまでは、私が起案した使用者側の解雇理由への反論には、玉澤先生がより丁寧に書き込むことが多かった。そういう事情もあって、それに私が梅野さんの説明に納得して力を得たこともあり、今回は確信して書き込んだのだけど…
「訴状にマニュアルはない、事案に応じて最適の構成を考えよ、ですね。先生がいつも言うように」
「そうだね。狩野さんの原案が悪いわけじゃない。そういう考えもありだとは思う。私は、このレベルの解雇理由なら、ストーカーのところや社長への直訴状でやや苦しいところはあっても解雇有効とまで言えないと裁判官が感じてくれると踏んでいるが、担当する裁判官によっては、そうは見てくれないかも知れない。それなら狩野さんの案の方がベターということもありうると思う」
「ありがとうございます。そこまで気をつかっていただかなくても、先生のお話を聞いて、先生の構成のほうが優れていると私も思いました。これで行きましょう」
3.訴状提出
できあがった訴状案は、その日のうちに、梅野さんにメールで送られた。梅野さんに事実関係で間違っているところはないか等を確認してもらい、直した方がよさそうな点に対応する。その上で、六条さん、私、最後に玉澤先生がそれぞれ改めて通し読みして若干表現を修正して、訴状が完成する。
訴状とともに提出する書証として、梅野さんの件では、解雇予告通知書と給与明細書などの裁判所提出用と被告用、私たちの控えと梅野さんに送る控え、都合4セットのコピーを作成し、裁判所に納める印紙と郵券を郵便局で買ってきて、訴状提出の準備が完了する。
裁判所に納める印紙は、解雇事件では、請求するバックペイ、つまり解雇後の賃金のうち、提訴までに発生したものとその後1年間に発生するものの金額を基準として計算する。梅野さんの件のように解雇後すぐに提訴する場合は1年分、場合によれば11か月分で済ませる余地もある。郵券の額は、裁判所ごとに決まっていて、東京地裁では、被告が1人なら6000円分だ。
六条さんが用意した提出物一式を渡され、6月18日昼前に、私は東京地裁14階の民事受付を訪れた。東京地裁では、労働専門部があるため、労働事件のうち、賃金仮払い仮処分のような労働仮処分と労働審判は、労働部で受け付けることになっているが、本訴は民事受付で受け付けるので、訴状は、解雇事件であっても、民事受付に提出する。そこで労働事件と判定されて初めて、労働部に回るのだ。
民事受付には、順番待ちの人が座っている。多くは事務員のようだが、弁護士の姿も時々は見える。受付で、訴状の形式面のチェックや、印紙額の計算の確認、専門部の事件かの判断などが行われ、それが済むと事件番号と担当部が書かれた受付票が渡され、訴状の受付が完了する。
受付票を見ると、梅野さんの事件の事件番号は、令和元年(ワ)第6666号で、担当部は、当然のことながら労働部だ。
裁判所では、頑なに「元号」が用いられている。2001年に民事裁判上の文書が、それまでのB4縦書き袋綴じという日本独特のスタイルがA4横書きに改められ、読点の「、」(てん)をなんと「,」(コンマ)にするという日本語表記の大胆な変更が断行された際にも、元号使用はまったく揺るぎもしなかった。令和元年は5月1日開始で、4月末までの「平成31年(ワ)号事件」の後どうするのかと思ったが、5月以降に受け付けた事件は平成31年の番号に引き続いて番号を振られた。つまり、令和元年(ワ)第1号事件は存在しない。もし4月まで1件も訴え提起がない超過疎地の支部があれば別だが。この年特別の10連休が明けた5月7日に第1号の事件番号をゲットするためにチャレンジした弁護士もいるようだが、残念な結果に終わっている。
訴状の受付を無事に済ませた私は、六条さんに電話してそのことを伝え、ぱらつき始めた雨に、常時携帯している巨大な折りたたみ傘を開き、裁判所を出た。梅雨時だから当たり前ではあるが、薄黒い雲に覆われた空に、この後の予定をダブらせ、私の心は少し重くなった。
4.お誕生日
今日6月18日は、六条さんの誕生日。六条さんのたっての希望で、業務時間終了後の夜、事務所でお祝いをすることになった。3月の私の誕生日のときの六条さんの心遣いに報いるため、私は六条さんのリクエストに従って準備をしたが、その内容にはちょっと目をむいた。
「ええっと、振ってから抜きますか」
六条さんが持ち込んだシャンパンの包装を解きながら、私は聞いた。
「いや、そこは静かにやりましょう」
シュポン!飛んだコルク栓が天井に当たって六条さんの近くに落下するのを見定め、私は、シャンパンを六条さんのグラスに注ぐ。やっぱり私にはビリヤードの才能はなさそうだ。浮かれたふりをしてシャンパンを六条さんの頭からかける勇気もない。
「玉澤君はお酒飲まないから、グァバジュースね」
「あぁ、日本でも売ってるんだ」
「うん、通販なら手に入るよ。お茶の時間にも時々出そうか」
「ありがとう」
またしても、玉澤先生の好みを熟知している六条さんに点数を稼がれたか。しかし、今日は六条さんの誕生日だし、邪魔立てはするまい。私は口元に力を込めた。
「六条さん、お誕生日おめでとうございます。ちょっとここで電気を消して暗くします」
ケータリングでの上品なフランス料理の夕食の後、私は、バースデイケーキを用意しようとしたが、ろうそくの数を気にしたくない六条さんに拒否され、思いもよらぬ対案を示された。電気が消えて暗くなった隙に六条さんが玉澤先生に抱きついたりしないか、私は注意を払いながら、机の上に用意したものを置き、スイッチを入れた。
事務所内に星が輝き、回り出した。流れ出した音楽は、「フラッシュダンス」だ。私も、音楽に合わせて踊り始める。
もちろん、私が1歳の時の映画は、リアルタイムでは見ていないが、今回、六条さんが若い頃、したがって玉澤先生も若い頃だが、よく踊ったダンスミュージックをかけて踊りたいというリクエストを受けて、六条さん1人で踊らせるわけにはいかないので、私も自宅で練習した。例によって、美咲も付き合わせ、飲み込みの悪い私に振り付けの指導をしてもらった。六条さんの最初のリクエストには「ピンク・レディー」を2人で超ミニスカで踊るというのも含まれていたが、それだけは勘弁してくれとお断りした。
今日の六条さんは、ミントグリーンが入ったライトブルーのロングのワンピ姿。赤いちゃんちゃんことか、絶対拒否という意思を込めて鮮やかな寒色を選んだのだろうけど、この人は何を着てもよく似合う。アナ雪のエルサのイメージに近い六条さんの出で立ちを聞いて、私はアナのイメージでブルーのロングスカートに黒のベストを合わせてみた。私は、アナのようなかわいらしさを持ち合わせていないから、似合わないと思うのだが。私がそう言うと、美咲はじゃあ雰囲気を出すためにオラフの格好で飛び入りしてやると言い出したが、さすがに断った。
ロングスカートなら、六条さんが突然「フレンチカンカン」をやると言い出さない限りはパンチラはないが、厚手のロングスカートをはいて「フラッシュダンス」は、ちょっときつい。
この後はより激しい曲が続く。「Can't Undo This!」「Are U Wake up ?」…あぁ、六条さんがカウンターに上った。げっ、六条さん、カラフルな羽根つき扇子まで用意してる。六条さんのワンレン、ボディコン、ミニスカ姿を想像してみる。ふだんの様子からは想像もできないが、こうして踊っているのを見ると、今、その格好をしても、それほど違和感なく私は見とれてしまうのではないか。どうして?もう60歳なのに。私は、つくづく世の中は不平等にできていると思う。
六条さんがお立ち台に立ったので、私は見る側に回っていいかと油断していたが、六条さんが腰を振りながら、扇子で私に「おいでおいで」している。ええっ、まあ、仕方がない。今日はすべて六条さんの求めるとおりにしよう。私もカウンターに上がり、六条さんに合わせて腰を揺らし、背中合わせで玉澤先生を指さす。玉澤先生は、ソファに座って呆然と見ている。もともとダンスは苦手だというし、今は脚も悪いので、玉澤先生は、ダンスを免除されている。今のところは。
ユーロビートの後、何曲かアバのダンスミュージックが続き、ヘトヘトになった私は、戦線から離脱して、玉澤先生の横に座り込んだ。ここからは私はお呼びでない。
「先生、この後は、先生の番ですよ」
「えっ」
「もちろん、先生は聞いてないと思いますけど、六条さんのご指名ですから。先生はただ立って六条さんに合わせていればいいです」
音楽は、スローなバラードになり、ストロボライトも消え、少しずつ色を変える薄明かりの中を星が緩やかに回る。立ち上がった玉澤先生を六条さんが迎え、抱き寄せ、頬ずりをする。六条さんのうっとりした表情に、私は唇を噛む。頬の辺りが光っているのは、ハードなダンスを続けた汗だろうけど、ひょっとしたら六条さんが感極まって涙ぐんだのかも知れない。
ここのところ、私はずっと六条さんを出し抜いてきた。2人きりではなかったけれど温泉旅行にも行ったし、毎日のように玉澤先生が外出するたびに寄り添って腕を組みいちゃついている。六条さんはその間ずっと焦れていたはずだ。この短い時間でも私がこれだけ妬くのだから、六条さんがこのところ味わってきた焦燥感は相当なものだろう、と私は自分に言い聞かせた。
5.Thank you for your everything
チークダンスの曲が3曲続き、私が耐え難きを耐え忍び難きを忍んだ末に、ラストの曲になった。六条さんが選んだのは、六条さんもリアルタイムでは聞いていないはずだが、ビートルズだった。フランス語で入る「Michelle
ma belle…」のMichelleは、六条さんの脳内では「みっちゃん」に変換されるのだろう。サビの「I love you , I love
you , I love you」の声が響く中、玉澤先生をギュッと抱きしめた六条さんは、唇を玉澤先生の耳に当て、何か囁いている。きっと、歌詞通りのことを言っているのだろう。
曲が余韻を残して終わった後、六条さんは、カラオケ用マイクを両手で持って、語り始めた。
「今日は、私のお誕生日を祝ってくれてありがとう。私のわがままに付き合わせてしまったけれど、玉澤君、本当にありがとう。これまででいちばんうれしいお誕生日だった。狩野さん、ごめんね。本当にありがとう。路子は幸せです」
六条さんは、目を潤ませ、両手でマイクを顔の前に掲げてしばし見つめた後、右手に持ち替え、腰をかがめてマイクをそっと床に置いた。
(おいおい、山口百恵のファイナルコンサートかよ…)
六条さんの中では、結婚式以来の主役感があるのかも知れない。
片付けを終え、今日は素直に帰る玉澤先生を六条さんに委ね、私は、今日はもう少し事務所で自分の事件の準備をすると言い張った。六条さんから、そこまでは要求されていなかったが、私からのプレゼントだ。だって、ここまで幸せな気分だった六条さんに、最後に私と玉澤先生の2人で帰させて、このあと2人はどうしたんだろうと思い悩ませるのは、ずいぶんと残酷に思える。もちろん、この勢いで六条さんと玉澤先生を2人で帰らせて何が起こるかということは私も気になる。しかし…
私は、明日の国選弁護事件の記録を読み直して、すでに準備してある尋問のストーリーを再検討しながら、スマホを眺めた。玉澤先生が退院してからたいていは一緒にいたから使うこともほとんどなかったが、玉澤先生の左手首には発信器がついていて、私は玉澤先生の所在をリアルタイムで把握できる。もしラブホに入ったら、玉澤先生に電話を入れて邪魔することさえできる。でも…私は、そこまで嫌な女になりたくない。
しかし、玉澤先生は、帰宅ルートから一度も外れることなく、自宅にたどり着き、私は、ホッとした。結局、国選事件の記録はただめくっているだけで、頭に入らなかった。もともと準備は全部できていて、事務所に居残るための口実にしただけだったからいいけど。
「六条さん、ごめんなさい。そして、ありがとう」
私は独り言をつぶやいて、目の前の扉を開き、事務所を後にした。
第3章 乱されてユラユラ に続く
この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。
この作品のトップページ(目次ページ)に戻る ↓
「小説」トップに戻る ↓
他の項目へのリンク