「テロ」( F.v.シーラッハ)を題材に刑事裁判を考える

問題提起

 「テロ」(TERROR : Ferdinand von Schirach 2015年:東京創元社 2016年)は、ベルリン発ミュンヘン行きの164人の乗客を乗せた航空機がハイジャックされテロリストは7万人の観客が観戦中のサッカースタジアムに墜落させると機長に通告し空軍機が飛行進路妨害をしても警告射撃をしても反応しなかったため空軍機パイロットの少佐が「いま、撃墜しなければ数万人が死ぬ」と叫び航空機を撃墜したという事件について、被告人は有罪か無罪かを問うています。事実関係はまったく争いがなく、作品(戯曲)中の審理では、航空安全指揮・命令センターの将校、被害者(乗客)の遺族、被告人への尋問がなされただけで検察官の論告と弁護人の最終弁論のみで判決に至っています。論点は実質的にはただ一つ、7万人の命を救うために164人を殺害することは許されるか(違法か適法か)です。
 この問題提起は、検察官が論告でカントを引用しているように、極めて観念的です。弁護士である作者がこのような観念的な問題提起に終始することに、私は若干の違和感を持ちますが、それはあとで問題にすることにして、法律問題についての世間でのイメージはそういうものと考えて進めましょう。

 

「7万人の命を救うために164人を殺害していいか」の命題をどう考えるか

 7万人の命を救うためには164人を殺害するしかないということを大前提として捉える限り、撃墜行為を違法だということには抵抗があります。と言って、撃墜により164人が死んでいるのにそれを適法だということにも抵抗があるというのが、ふつうの人の感覚であり、価値観でしょう。その相反する心情を2者択一で答えろという問題提起に困ってしまうわけです。この作品でも、有罪と無罪の2つの判決が並べられています。
 法律家としての私は、こういう観念的な議論を、少佐の行為は刑事法上は違法とは言えない(人を殺害したのだから「違法」ではあるが、より多くの人の命を救うためにやむを得ない行為なので例外的に違法性がないと評価される:法律家業界の言葉では、「緊急避難」として「違法性が阻却される」)、民事法上は違法性が残る、というように思考上処理することになります。業界外の人は、法的な評価は「違法か適法かの2つに1つ」と考えるのがふつうですが、刑事罰は最終的な手段なので刑事罰を科す行為は違法性がかなり高い行為である必要があり、法律の世界での「違法性」には段階があると考えるのです。刑事法上「違法でない」ということが、胸を張って適法だとか、英雄的行為だと言えるということを意味するわけではないのです。民事上は違法性は残るので遺族は損害賠償請求は可能ということになりますが、少佐が賠償責任を負うというのは酷に思え、日本の現行法でも公務員の職務上の行為については公務員個人に損害賠償請求はできず、国が代わりに支払うという制度になっていて、この場合そうした処理が適切と考えられます。日本の法律では、刑法第37条が「緊急避難」という違法阻却事由を定めていて、民法上は(緊急避難という名称の規定はありますが刑法とは違う規定で)責任がない他人への加害を正当化する規定はないので、現行法に沿って考えると私が述べた考えがすんなりと結論付けられますが、ドイツの刑法では、無関係な人を救うための緊急避難の規定はないそうです(日本の刑法はドイツ法を受け継いだもののはずなので、ちょっとびっくりしましたが)から、解釈上の技巧を要することになります。でも、何らかの技巧的な解釈をしても、そう考えるのが、法律家レベルでは適切じゃないかと私は思います。

 

裁判で法律実務家は何を考えるか

 私の眼には、「7万人の命を救うためには164人が搭乗する航空機を撃墜するしかない」という設定自体が、実務家の感覚として疑問に思えます。第1に、7万人の観客がいるスタジアムに航空機が墜落して7万人が死ぬでしょうか。直感ですが、死者は数百人レベル、かなり多く見積もっても数千人までだろうと思います。高層ビルが倒壊した9.11テロと違い、スタジアム全体が崩壊することは考えられませんし、燃料の爆発・炎上を考えても国内便でもありそれほど大量の燃料を搭載しているとは思えません。第2に「コックピットに私服の男が見える」「男は機長と副操縦士のあいだに立っている」(32ページ)という状況からすると、テロリストは1人で、機長と操縦士を殺さずにいて、自分で操縦しているわけでもないようです。それなら、テロリストが目的どおりにスタジアムに航空機を墜落させられるか自体がかなり危ういのではないでしょうか。9.11テロでは、テロリストがパイロットを殺害して自ら操縦したからWTCのビルに激突できたのです。テロリストのいうことを聞いても聞かなくても確実に死ぬのならパイロットはテロリストに全面協力してスタジアムに墜落させるでしょうか。こうなると、7万人の観客か164人の乗客かの2者択一という問題設定自体が疑わしくなり、この裁判の争点は、「7万人の命を救うために164人を殺害(航空機を撃墜)してよいか」という観念的な問題ではなく、スタジアムの観客の命を救うために「やむを得ない行為」だったのかという事実認定と法的評価の方にあるのではないかと思えてきます。

 もちろん、本館で映画「ハドソン川の奇跡」の感想として書いたように、後知恵の机上の空論で、こういうことができたはずだというのは許されるべきでないと思いますし、事実認定であれ法的評価であれ、どちらがよいかと迷うような微妙なケースは、そもそも刑事裁判としては処罰すべきでないと思いますが。

 

 現実の裁判では、マスメディアの好きな単純化された2者択一ではなく、より具体的な事実に基づいたさまざまな問題点が出てきます。そういう問題点をていねいに拾い上げ検討してその事案に妥当な結論を導いていくことが、法律実務家には大切なことなのです。

 

 このサイトのブログの2016年11月2日の記事で、シーラッハの試みとある意味で似ているかと思いますが、「ああ無情 : Les Misérables 」のジャン=バルジャンのケースを用いて、刑事弁護が必要なわけを説明しています。

 よろしければそちらもご覧ください。→ジャン=バルジャンのケースを題材に刑事弁護を考える

 

 

 

2016年10月31日